続日本精神史研究

 ちっとも文庫化されそうにないこの本の第一論文。和辻の発想法がよく出ているというか、和辻の面目躍如の論文と言っていいのではないかな。

ではどういう行為が日本精神の発露であるのか。かかる発露をそれとして定める規準は何であるのか。そこで人は忠君愛国とか君国のための自己犠牲とかをかかる規準として採用する。ところでこのような規準によって日本精神の発露として規定された行為を捕らえ、それを媒介して日本精神を把捉してみると、それがまさしく忠君愛国とか君国のための自己犠牲とかにほかならない。してみると日本精神は行為における発露を媒介として初めて把捉せられるものではなく、かかる発露をそれとして規定する規準としてすでにあらかじめ一定のイデオロギーに形成せられていえるのである。それならば日本精神の発露と言われるものはこの一定のイデオロギーを個々の行為に適用することに過ぎない。日本精神への通路をこの「発露」に求めるという方法的意義は全是失われてしまう。のみならずこのようなイデオロギーが何ゆえにあらかじめ日本精神の発露をそれとして規定する規準に選ばれたかが新しく問題とせられねばならぬ。そこでまた前代の日本精神の把捉が引き合いに出てくる(295頁)。

 というわけで、「忠君愛国」とか「大和魂」といったもので「日本精神」を代表させようとするような反動的な思想を否定して、日本精神というものを捉え返そうとする。しかし、和辻はそこで同じ轍を踏んでいないかという疑問は残る。それはともかく、日本文化の重層性としてまとめられる和辻の「日本精神」の理解は、加藤周一のそれや丸山眞男のそれと大きく異なるものではないように思える。

日本精神が日本文化の主体であり、この主体が右のごとく重層的な日本文化を通じて把捉せられるのであるならば、それは否定的に連関する多くの様相の動的統一であって、単純な、一面的な「魂」のごときものではない(321頁)。

 また、和辻は国民的自覚の転換点を日清日露とりわけ日露戦争に見ている。「しかしこの時をもって「東洋の解放」を含意する日本の衝動的な反撥は終わった。日本はその国民としての地位を確保するとともに、自ら帝国主義競争に加わったのである」(446頁)。こうなると司馬遼太郎あたりの歴史観と意外と近いということになるのかな。