自我の源泉

 「善の明確化」ってどういうことだろうという疑問は、第4章で明らかにされる。「明確化を行うことは信念をしっかり守るための必要条件であり、それなしではこれらの善は選択肢ににすらならない」。「ここでの中心的な考え方は、明確化が私たちを道徳の一源泉としての善へと近づけ、その善に力を与えることができるというものである」(109頁)。

ここでは「言語」と「明確化」という考え方を、通常と違って、明らかにとても広い包括的な意味で使っているのである。善の感覚は、言語による機銃においてのみならず、右に例として挙げた祈りのような、他の言語行為においても表現される。そしてもし私たちがこの例に従って、さらに礼拝方式にまで進むならば、表現というももは通常のやり方で狭く理解された言語の境界を超えてしまうことが分かる。儀式でのしぐさや音楽、視覚的シンボルの配置など、すべてがそれ特有のやり方で私たちと神との関係を定めているのである

 まあ、これはわかる。しかし、テイラーは明確化でそれ以上のものを求めている。「ともかく、このことが示しているのは、明確さへの通路は歴史的なものでなくてはならないということである」(124頁)。

例えば、私が思うには、近代の自然主義的・功利主義的な立場に見られる「高次の」善への敵意や、日常の感覚的幸福の擁護は、私が日常生活の肯定と呼んできたものから生まれたが、この日常生活の肯定は、近代初期においては、「高次の」活動様式とされていたものを同様に否認し、結婚と天職という日々の生活様式を支持していたのであった。この日常生活の肯定の原型は神学的なものであって、日常生活が神によって聖なるものとされるという積極的な見方を含んでいた。

神話を物語っていた時代ならともかく、現代にあって道徳の明確化のために歴史的な通路を経るということは、人間が物語的な存在であるということにもなろうが、かなり特殊な要請であるように思われる。こうした動機付けがはたらくとき、批判の対象としてきた自然主義的な立場と同じ土俵にのってしまっていることにはならないのかという疑問が湧いてくるのだが、私のこの疑問は当たっているのか、それとも間違いなのか?
 

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?