存在論的メディア論

 前半は、若干の違和感を感じつつも興味深く読めたのだが、後半に行けば行くほど議論についていけなくなる。これは私の勉強不足のせいだけなのか、それ以上の問題点があるからなのか。斉藤環の批判はあたってそうだ(前掲書202頁)。たとえば、以下の指摘はよいとしよう。

メディアがそれ自体で、〈現存在〉を自己から引き剥がし、離反させ、世界から脱落させ、遠方へと引っ張り、持っていこうとするのではない。そのようなことが起きるのは、メディア利用者が誘惑に屈してしまっているからである。つまりこれは、人間を頽落させるメディア技術がある、ということではなく、人間のいわば頽落的なメディア利用がある、ということにすぎない(133頁)。

そしたら、こう言ってしまってよいのだろうか?

われわれにとって、VRのウェアラブルが実際に利用されることになり、それが普及する時が必ずくるかどうか、ということは実はあまり重要なことではない。そうした端末が具体化されるということよりも、メディア技術の《ポテンシャル》がもはや〈表象的〉な枠組みではない枠組みを通して行われつつあるということこそが重要なのである(259頁)。

 私は表象と現前の区別は実体的なものではなく、事態をどのように記述できるかの違いでしかないように思うのだが、この辺りを読んでいるとどうもそうでないような。それから、技術が人間化しているのであれば、人間も技術化しているのではないだろうか。とはいえ、面白い本ではありますよ。
 

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ