〈ほんもの〉という倫理

 この本の頁をあらためてめくって思う。食わず嫌いのテイラーだが、やはり『自我の源泉』は読まねばならんのだろうな。随分前に買った原書をはそのままになっており、そうするうちに出てしまった訳書も買ったままになっている。しかし、目次をながめて、ページめくってみると、議論の参照先の幅広さには、おそろしやと面食らう他はない。彼の議論にどこまでつきあいきれるかはともかくこれは通読しなければなるまい。しかし、その余裕はなかなかなさそうだ。ともかく、
 「自己を超えたところから発せられる要求に耳をふさぐならば、ものごとが重要性を持つための条件を隠蔽することになり、陳腐化を招くのは必定です」。「重要なことがらを背景として、その背景と照らし合わせることでしか、わたしは自分のアイデンティティを定義できないのです。しかるに歴史を、自然を、社会を、そして連帯の要求をも考慮の対象からはずし、自分自身のうちに見出されるもの以外はいっさい目もくれないようになれば、重要なことがらの候補となるものをあらかた摘み取ってしまうことになりましょう」(57頁)。
 「人間を人間として処遇すべきならばわたしたちは、こうした本来なお姿を、つまり埋め込まれていて、対話的で、時間的な人間の本来の姿を尊重しなければならないということです」(144頁)。わたしはこの議論にどこまで同意できて、どこから同意できなくなるかは、この本だけではちょっと判断がつかない。

「ほんもの」という倫理―近代とその不安

「ほんもの」という倫理―近代とその不安