モナド

 ここまでのまとめ「問題の一般的な理論的解決はつぎの事実にある。話し手が指示をなすには、彼自身の直接的環境が共通の準拠枠を与えるもので、これとの関係で、彼自身が位置していた単一な時空的枠組に属する任意の他の品目への指示の一意性も確保できるのである。この解決を受け入れることは、特殊者どもの同定が究極的には、ある指定的、ないしは自我中心的、ないしはtoken reflexiveな意味を有する表現の使用にもとづくということを受け入れることである。なぜなら、話し手の近傍における準拠点が占める、理論上の中心的な位置の意義は、錬磨されていないまでも適当な記述と結びつけられることによって、この準拠点にかんする指示の多義性が指定後の使用によって排除されることである」(143頁)*1
 さらに、特殊者の同定に指定語は必要であることは物体のみならず音についても言えることから議論が拡張されて(ここちょっと強引な感じもするのだが)。「特殊者にかんする思惟を同定する際、指定語が理論的に不可欠なのは、たんに特殊者を許容するあれこれの概念機構の特有性ではなく、特殊者が登場する任意の概念機構、任意の存在論にかならずある特色であることを示唆する。---。一般に特殊者への同定指示は、直接また間接に指定力を含んでいる表現の使用に究極的に依存すること、あるいは、言語のことばではなく思惟のことばにすると、特殊者にかんする同定的思惟は必然的に指定的要素を組み入れているということが出てくる」(144頁)。
 で、ライプニッツモナドの概念に検討を加えて理解可能な解釈を与えてみることになる。ここでライプニッツを持ち出してくるのが意外で、しかもチェス盤の例を使って自説を展開するので面白い。

個体と主語

個体と主語

*1:ここで、いきなりtoken reflexiveとか言われて面食らう。索引では、token reflexiveは頁の指定がなく、指定語へという指示があるが、指定語にはdemonstrativeという原語が付されている。どういうことなのだろう。いずれにせよ、やっぱり原書が必要かな。そもそも指定的同定と訳されても、demonstrative identificationというニュアンスは伝わりにくい。ちなみに、demonstrative pronounsといえば指示代名詞のことである。