自由と怒り

 今日は『個体と主語』から外れてみる。これも面白い。決定論を論じるために怒りを手始めに考えてみるなんて、いったい誰が思いつくだろうか?ストローソンは人間社会の根源的なあり方に立ち戻って、われわれが誰かに怒りを覚えるということ、あるいは、他人の行為を道徳的に評価したり、責任を追及するということ、こうしたことが決定論にたいしていかなる影響を及ぼすこともないことを明らかにして、決定論と手を切ろうとする。もちろん、だからといって自由意志説に与することもない。
 決定論がいかなる意味をもつとしても、それは現実の場面でわれわれがそのようにしたということとは何の関係もない。「正常な人に客体への態度を向ける場合であれ、異常な人に向ける場合であれ、そうするのは、行動がそのなんらかの意味で決定されていると考えることが理由である、というわけではない。---。場面により理由は異なるのだが、個人間の通常の態度を相手に向けるのをやめたから、そうするのである」(54頁)。

私たちは、個人間の通常の関係の当事者となり、その関係の中におかれている。そのことに人間らしい仕方で深く関わることは、私たちのすみずみにまで行き渡り、深い部分に根をおろしている。それゆえ、ある種の想定は真剣な考慮の対象とはならない。つまり、ある一般的な命題の正しさを理屈の上で確信することによって私たちの世界が変容し、その結果、個人間に生じる関係ということで私たちがふつう理解しているものが、すべて世界から消え去ってしまうーこうしたことが生じるかもしれないという想定には、本気で向かい合うことはできないと私は考える。そして、個人間に生じる関係ということで私たちがふつう理解しているものの中におかれること、それはすなわち、反応的な態度や感情のうちここで話題にしてきたもののただ中にいるということにほかならない(52頁)。

自由と行為の哲学 (現代哲学への招待Anthology)

自由と行為の哲学 (現代哲学への招待Anthology)

  • 作者: P.F.ストローソン,ピーター・ヴァンインワーゲン,ドナルドデイヴィドソン,マイケルブラットマン,G.E.M.アンスコム,ハリー・G.フランクファート,門脇俊介,野矢茂樹,P.F. Strawson,G.E.M. Anscombe,Harry G. Frankfurt,Donald Davidson,Peter van Inwagen,Michael Bratman,法野谷俊哉,早川正祐,河島一郎,竹内聖一,三ツ野陽介,星川道人,近藤智彦,小池翔一
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2010/08/01
  • メディア: 単行本
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