『死のアウェアネス理論と看護』

さて、また「本業」に復帰。予定通りであればもう読了しているはずの本。シンボリック相互作用論は隣接領域になるのに、ミードはおくとして、なんか苦手意識がある。この本も一読して、内容はとてもわかりやすいのだが、なんかすっきりしない。どこにひっかかっているのだろう?
とりあえず、「私たちは死にゆく状況に関与する各々が、患者の運命について何を知っているかという視点に立てば、ほとんどのケースが理解できることを発見した」(8頁)。というわけで、「認識awareness」が戦略的一般変数だとされている。要するに、意識準拠ということでいいのかな。だから、当然、そうした個人の態度で左右される文脈認識はコントロール可能な変数であり、どれだけコントロールする機会が配分されているかが接近変数と呼ばれることになる。
で、「認識文脈の変化によって病院のある部門の構造的条件が変わり、そこが「それまでと異なった場所」になっていく場合のように、ときには相互作用のコースがそれまであった社会構造を部分的に変えることがある。社会構造と相互作用の、相互に変化を及ぼしあう関係こそが、相互作用の発展的特性についての研究をより実り多いものにする」(292頁)。
相互作用の定義は「死にゆく患者」をどう定義するで決まることになっているようで、「死の不確実性」と「死の時期」の組合せで4つの「死の予期」のタイプを考えることができ、当然この予期は変化する。「こうしたいろいろな予期の全体的組合せが、患者をめぐる「認識文脈」の定義」の中身を構成することになる(26頁)。
また、死の予期を確定するのは医師ないし看護婦だが、診断を下すのは医者だけであり、さらに、患者やその家族も予期を抱くわけだが、患者と医療スタッフのあいだには予期形成にかかわる知識をめぐって非対称性が存在することになり、もっぱら患者(と、もちろん、場合によってはスタッフ)の「終末認識awareness」に応じて、「「閉鎖」認識、「疑念」認識、「相互虚偽」認識、「オープン」認識という「認識文脈」が類型的に定義される。で、それぞれで何が起きるかと。
ということで、いいのかな。この図式にすんなり納得してよいのかよく分からない*1。ただ、さしあたりは、この話、知識に非対称性が利用されるかぎり、逆スティグマとでも言えばよいのだろうか?「スティグマ」がパスするんじゃなくて、「スティグマ」を周囲がどうパスするかみたいな話がかなり大きいな軸になるように思われる一方、とりわけ死が問題になる以上、看護婦って「役割距離」を取るのが仕事みたいなところがあるな、と。
ところが、ゴッフマンは「公式理論」で、こちらは「具体理論」だということになるらしい。あと、訳語がどうなってるのか気になる。awarenessだけでも多義的に訳されてるようだし、用語索引がついているのは有り難いが、なるべくなら索引項目には原語も付してほしい。

死のアウェアネス理論と看護―死の認識と終末期ケア

死のアウェアネス理論と看護―死の認識と終末期ケア

 

*1:さらに、これとか読めばいいのかな。

データ対話型理論の発見―調査からいかに理論をうみだすか

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