『アサイラム』

 『アサイラム』を二周したもののまだこの話のうまい切り口が見つけられない*1。とりあえず、前のながれとかかわる部分だけ翻訳から引用。しかし、わたしがやりたいのはそんな話ではないのだが。それはともかく、本書では、ゴッフマンは必ずしも相互行為に準拠していない。そして、これは『日常世界の自己呈示』にあっても同様である。

このように極端な形の生活の段階づけが制度化されると、社会的舞台装置の自己に対する意味に光が投じられることになる。そしてこのことは逆に、自己は自己の所有者が重要な意味をもつ他者との相互行為を重ねることによってのみ生じてくるものではなく、特定の組織体においてその構成員のために成立した様々の仕組みからも生じて来る、ということを裏づけるのだ」(156頁)。

 他方、こっちは『相互行為儀礼』の延長にある話。自己は一定のシステムのなかで生まれてくるのだと。

それぞれの精神的経歴ならびにその背後にある個々の自己は、それが精神病院のような社会的営造物であるか、あるいは個人的・職業的関係の複合体であるかとは無関係に、何らかの制度的システムの境界内に生起している。したがって自己は、特定の社会体系において構成員に対して遍在していれる仕組みのうちに存立しているあるものと見なすことができる。この意味での自己は、その自己が帰属させられている人物の所有物ではなく、むしろその人物との関わりにおいて彼自身ならびに彼の周囲にいる人びとによって行使される社会統制のパターンのうちに存立するものである。この特殊な制度的仕組みは、自己を構成しているのだが、それに匹敵するほどの支持を与えてはいないのである(177頁)。

したがって、まさしく組織の社会的仕組自体に、構成員に関する完全に包括的な考え方ーすなわち単なる構成員としての彼に関する考え方ばかりではなく、その背後に人間存在としての彼にかんする考え方が組み込まれているのである(190頁)。
私が関心を抱いているのは、組織内で期待されている活動には行為者に関する考え方が含意されていること、したがって組織はアイデンティティに関する被明示的仮定を発生させる場所と見なすことができる、という事実である。営造物の敷居をまたぐと、個人は状況に注意を向け、適切に定位し、それに調子をあわせる義務を引き受けるのだ」。「このような注意と努力の定位ならびに傾注によって、彼は当該営造物ならびにそこで帰属させられた自己像に対する自分に対する態度を一見それと分かるように確立するのだ。規定通りの心構えで特定の活動に従事することは、特定の種類の世界に住む特定の型の人間としての存在様態を受け入れることに等しい(197頁)。

ゴッフマンの社会学〈3〉アサイラム (1984年)

ゴッフマンの社会学〈3〉アサイラム (1984年)

*1:本当は、少なくともこの辺りをあわせて読むべきだよな。

強制収容所における人間行動 (岩波現代叢書)

強制収容所における人間行動 (岩波現代叢書)