ヴィヴィオルカ『差異』

 差異の逆転。たとえば、移民の第二世代は、自らを新たに意味づける資源が必要になる。

 この第二の人間像は、あるかたちで第一のそれと対立する。なぜなら、移民にとって大切なのは、伝統から離脱して近代生活のなかで個人化することではなく、逆に、集合としての貴族や基準を見いだして再発見することで自らを構築し、自らの生きる経験に意味を与えることなのである。ここでは、意味の追求が個人的必要として内面化されている。なぜなら、移民はつねにレイシズムにさらされる可能性があり、スティグマ化され、ポジティヴな自己表象をすべて否定されて、自尊心を形成しにくくなる恐れがあるからだ。その場合、アイデンティティの選択は、劣等性の同義語である差異をおしつけてくる貶価に対する最良の回答をなす。スティグマの逆転、すなわち貶められた差異を肯定的なかたちで取り戻すことを通して、意味が再発見されることもある(150頁)。

 のみならず、同性愛者や障害者等についても同じことがあてはまる。

 これまでみてきた事例のように、集合的アイデンティティを出発点にした文化的差異ばかりでなく、もともとは個人的に自己規定していた人びとがともに運動を行ない、そこから文化的差異が生まれることもある(151頁)。
 ここでの文化的差異は集合的行動から生まれたものである。それまで同性愛は多かれ少なかれ蔑まれ笑いものにさら、疎外されて注視されることを受け入れないかぎり、私的空間に押し込められてきた。この私的空間から外に出たことによって、文化的差異が生まれたのである。行為者が自己形成し、集合的所属を獲得し、これを全面的に引き受け、かつ生きるようになるのは、私的空間から公的空間への移行においてなのである(151-2頁)
 また、重病や慢性病、身体障害、聴覚障害と結びついた差異についても同じことがいえる。これらの差異の多くが、「第二次的アイデンティティ」の論理にしたがって形成される。ここでの差異は選好や選択によってではなく、悲劇や個人的困難によって構成されるのである。行為者は、それまで個人的なものとしてとらえていた困難に、集団的要素のあることを発見するようになる。最初に、自分の運命について自分で決めることを許さないような問題や、自分の存在を形成する能力を奪ってしまうような障害の認知を求める運動が起こる(152頁)。

 他方で、平等を建前とした社会でありながら、分離的な傾向が強いと以下のような問題も。

 平等や友愛の価値を称える社会では、スティグマ化はこれらの価値への個人の全面的な接近を阻むため、文化的または自然的アイデンティティの名において個人を貶価するスティグマ化は支持されない。スティグマ化された人びとがそうした状況に立ち向かうのにもいいることのできる応答手段は限られている。人びとが平等であるように見えて不平等であり、似ているようで異なっていることを知らしめることで、差別を承認させることもありうる。---。
 こうして生まれた誇りの意識に対し、社会が無関心だったり、認知しなかったり、もっと悪いことにこれを架空のものだと決めつけたりすると、どうなるか。誇り意識を生み出した逆転によって、行為者は、社会において承認された自分の場を獲得できず、狂気や自己破壊、過激な政治運動だとみなされ、頃津してしまう。行為者が自分を理解させる力をそなえ、社会がそれを聞く耳をもっていないかぎり、スティグマの逆転はこうした破滅的な結果をまぬがれえない(169頁)。

差異―アイデンティティと文化の政治学 (サピエンティア)

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