ホモ・サケル

 話は難民、「生きるに値しない生」、優生学、人間モルモット、収容所と進んでいくわけであるが、この本の議論の射程ってどれくらいになるのかまだよくわからない。
 「政治がかつてないほど全体主義的なものとして構成されえたのは、現代にあっては政治が生政治へと全面的に変容してしまったからにほかならない」(166頁)。「諸個人が中央の権力と衝突することで獲得する空間や自由や権利は、そのつど、諸個人の生が国家秩序の内に記入されることをも準備してしまう」(168頁)。「後に、権利保持者として、あるいはまた、奇妙な撞着語法によって新たな主権主体(下にあると同時に上方にあるもの)として姿を現すことになる者が、そのような主権主体として自らを構成できるのは、主権による例外化を自ら反復し、自分内部に身体をつまりは剥き出しの生を分離することによる」(172頁)。
 「それまでは主権の成立要件であった剥き出しの生に関する決定が、例外状態という限界を超えて移動し、徐々に拡大しているという状況である。すべての近代国家に、生に関する決定が死に関する決定になり、生政治が死の政治へと転倒しうる点をしるしづける線があるが、今日ではその線はもはや、はっきり区別された二つの違いを変える固定された境界という姿を呈してはいない。それはむしり、徐々に拡がっていく社会的な生の地帯のなかで位置づけを変えていく、動きをもった線であり、そこでは主権者は法律家とだけでなく、医師、科学者、専門家、司祭とも親密に共生するようになっている」(170頁)。
 「もしこのことが本当なら、もし収容所の本質が例外状態の物質化するというところにあり、またその結果、剥き出しの生と規範が不分明な境界線に入りこむや空間を創造するというところにあるのなら、こうした構造が創造されるたびに、そこで犯される犯罪の実体が何であろうと、それがそのように命名されどのゆな地形になっていようと、我々は潜在的には収容所を前にしているということを認めなければならない」(237頁)。

ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生

ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生