「パリ20区、僕たちのクラス」

 毎度のことながら事前に何の情報を仕入れることもなく、パリも20区だったら多様な子どもたちがあつまってくるんだろうなぐらいの気分で、てっきりドキュメンタリーだと思って見に行った。でも、見ていくうちにだんだんこれドキュメンタリーじゃないんだなと気づいてくる。オリジナル・タイトルはentre les mursだから、「壁の内側で」ということになるだろう(けど、もっと象徴的な意味を読み込むこともできるかもしれない)。実際、外側は一回も出てこないが、ここで起こっているバトルは壁の外側がなければ起こりえないものだ。
 舞台は、「国語」の教員が担任を務めるクラスでの「国語」の授業。授業の本題から脱線した部分に焦点があてられているから、誇張されて見える部分も多分にあるのかもしれない。とはいえスゴイと思ったのは、子どもたちが子どもたちなりにそれぞれ意見をもっていて、たとえ、それが屁理屈であろうとも、理屈を立てて教師に挑んでくるということだ。それは、ちょっとした戦場という感じ。こんなことやってたら、教師もまいってしまうだろうと思うのだが、教師もあえてこの脱線にのって生徒とのやりとりを繰り広げるのだ。
 この主人公である教師が「国語」の教師として設定されているということは偶然ではあるまい。おそらく学科目のなかで「国語」ほど、各人の出自の多様性を映し出してしまうものはないし、教科が教科を越えた道徳的意味合いを持ってくるものもない。しつように教員にたいする口の利き方にこだわり、子どもたちに「正しい」表現を教えようとする。一方、子どもたちは、教師の挙げる例文や文法に、外側にある自分たちの日常の感覚との食い違いを見つけては、様々な難癖を突きつけてくる。
 たとえば、なんで白人の名前を使うんだとか、接続法なんて使わないとか。あるいは、「風味がある」という語を説明するのに、「チーズ」を例に挙げても、アラビア系の子どもには通用しない。でも、「チーズには風味がないなら、それで意味が分かるだろう」といってそれを逆手にとって教えたりする。そんな感じで、教師がやりとりのなかで子どもたちねじふせていく。その「正しさ」に疑問を付すのは容易なことだろう。だが、壁の外では、この「正しさ」が通用してしまう以上、それを子どもたちに教え込まなければならないのだ。
 そのうち、自己紹介文を書かない生徒が、実は書かないのではなく、書けないのだということが見えてきたりして、他方で、この教師がひとりひとりの生徒をよく見ている、あるいは見ようとしていることも分かってくる(それでも、最後に脚をすくわれてしまうのだが)。子どもたちの授業を受ける態度は、厳しく評価され、ときに裁きを受けるのだが、そんなときも子どもたちになるべく寛容であろうとする。でも、そんな努力が、またまたことばの食い違いから問題の種を産み落としてしまう(それは、信頼の裏返しでもあろうと思うのだが)。そのことに苛立ったり、さらに問題が起こった対応のなかで腰が引けてしまう姿にあの教師のもう反面にある人間的な弱さも垣間見えたりして、よく考えてあるなと思ってしまった。
 ディスコミュニケーションがコミュニケーションになり、コミュニケーションがディスコミュニケーションになる。そんな壮絶な教育現場を、実際の教師や生徒を使いながら、撮りだして見せたんだから、これは大したもんでしょう。