「歴史修正主義の完成形態」

 歴史好きの知人との会話から。曰く、大河ドラマを見ていると出鱈目ばかりで面白くないと。ボクが大河ドラマを見ていたのははるか昔のことだが(ある種のPCせいでストーリーがホーム・ドラマっぽくなってから見なくなったように思う)、宮崎あおいが出ているが故に、何回か見てしまった『篤姫』は、たしかにそのあまりの「アリエヌ共和国」*1状態に、あきれるというか、いらつくというか、ボクにはとてもつきあえる代物ではなかった。
 もちろん、それを楽しんでいる人もいらっしゃるのでしょうから、それはそれでよいのだろうけど、いまの大河ドラマって歴史好きの人ほどついていけなくなってしまってるみたい。大河ドラマを楽しめる人って、どんな感じであれを受け取っているのだろう?もしかして、これがホントにあったことだとか思ってみていたりして。それとも、『水戸黄門』と同じような感覚で見ているのだろうか?いずれにせよ、これじゃ歴史大河ドラマって言われてもどうなんだろうと思ってしまうところがある。
 小説にしろ、ドラマにしろ、時代物と歴史物というのは明確に区別することはできないにしても、やはり境界線のようなものは存在するあるいはしていたと思う。たとえば、大河ドラマと『水戸黄門』や『鬼平犯科帳』は、やはり別のジャンルに属するものだったはず。実話に即して話をしたてていくのと、実在の人物を素材に話を作っていくのは違うものでしょう。もちろん、実話に即して話を作るにしてもそこには取捨選択が働くだろうし、想像で埋めなければならない部分もあるだろう。逆に、充分考証を効かせれば架空の人物を仕立てても、ありえたかもしれない話として楽しめる。
 時代考証が軽くなれば軽くなるだけ、そこで展開する物語の時代的な必然性はなくなり、現代のドラマやSFを見ているのとさしたる違いはなくなる。エンターテインメントを優先して、時代考証がおいていかれるとき、それをあえて歴史物とか大河ドラマと銘打つ意味がどこにあるのかよくわからない。黒澤が『七人の侍』を撮るときにどれだけ時代考証にこだわったかなんてことはもう過去の話なのだろうか?。
 しかも、それがあたかも歴史であるかのように語られ描かれていくとき、「新しい教科書を作る会」よりも何よりも、「歴史修正主義」が完遂されているということにはならないだろうか?それとも新しい「神話」の創出?いずれにせよ、「この話はフィクションであり、実在の人物とは必ずしも関係がありません」とでも表記しておけばよいのに。

*1:

サディスティック・ミカ・バンド

サディスティック・ミカ・バンド