海賊とは誰のことなのか?

阿部浩己「海賊と、国際法の未来」(神奈川大学評論64 2009)

 上記論文を読みながら思う。海賊退治に、海上保安庁の船を派遣するのか、それとも自衛隊の船を派遣するのかということが、 国会での議論の俎上にあげられていたわけだが、よく考えてみると、この海賊が何者なのかということをわれわれはちっとも知らない。相手が何者かもわからないまま、対応が護衛艦を派遣した取り締まりへと収斂してしまうのはちとおかしな話だ。もちろん、単純にそんなことはやめろと言いたいわけではない。海賊が何者かを考えたら別の対策もありえるかもしれないのに、そうしたオプションを考える余地が残されていないのが奇妙だといいたいだけだ。

 そうすると、この話、何かに似ているよなということになる。

実に、海賊こそが現代のテロリストの原型であり、海賊への対処という理由をもって国際刑法の素地が編み出され、個人をめぐる国際法制度のあり様がさまざまに形作られてきたといってよい。なにより海賊は、「われわれ」が人類あるいは国際社会という「想像の共同体」を構成する心象の形成に大いなる貢献を果たしてきた(104頁)。

 国際刑法(国連海洋法)上はこんな感じになるらしい。

この定義によれば、国家は海賊行為をなしえず、また私人の行為であっても公的目的を有する場合にはやはり海賊には該当しないことになる。公海上で他の船舶に乗り込んで暴力行為をはたらいても直ちに海賊となるわけではない重要なのは、誰がどのような目的をもってそれを行っているのかということである(105頁)。

 で、実態はと言えば

海賊やテロ行為をめぐって公私の区分がどのようになされてきたのかを振り返るに、たとえ政治目的に突き動かされていようと、行為の標的が人類全体とされた場合には「公」に分類されることはまずもってない。国際(文明)秩序そのものへの挑戦として、当該行為は脱政治化され、「公」の領域から放擲されてしまう。問題は、どのような行為が国際秩序、別して言えば「われわれ」への敵対行為とみなされるのか、である。ボリビア政府に向けられた行為はそうではなかった。ポルトガル政府に対するものも、そうとは断じられなかった。端的に言ってしまえば、ただ一つ、大国の体現する支配的な政治・経済的価値に暴力の矛先が向けられたとき、人類・国際社会という半鐘が倐忽として打ち鳴らされてきたのが実情なのではないか。大国の投影する利害めがけた実力行為は、秩序全体を紊乱する狂人たちの「私的」行為と裁断され、厳しく糾弾される定めにあったといってよい(106頁)

 だから、

ソマリア沖に出没しているとされる海賊にしても国際社会が力をあわせて取締まるべきと声高に叫ばれてはいるものの、実力行為の直接の被害を受ける可能性があるのは一握りの諸国の船舶にすぎない。にもかかわらず、その一握りの特殊な存在こそが二一世紀の深まる現在にあっては普遍・人類を名乗ることができる限られた力と価値の保持者となっている。だからこそ、東アフリカの貧しき漁民たちは、その面差しにはとうていにつかぬ人類共通の敵という、なんともおどろおどろしきラベルを貼付される立場に追い込まれ、鎮圧の的とされてしまうのでもある(105-6頁)。

 義賊ということばは今や死語になったようですが、義賊とまではいかなくても、この時期に米仏で「パブリック・エネミーズ」「ジャック・メスリーヌ」という似たような主題を扱った大作が公開されていたのも興味深い。この二本の映画を見ていると「パブリック・エネミー」というのは必ずしも民衆の敵というわけではないのだということを実感せずにはいられなかった。いずれにせよ、今号は全般的に読みがいがあった。って、年末に出たものを今頃読み終えているわけですが。