菅原和孝『会話の人類学』

 この本での会話の順番取りシステムの理解とかかなりあやしいところが散見されると思うのだが、フィールドから引き出される知見そのものはとても面白い。この本の全体を通じて確認されるグイ(ブッシュマン)たちのやりとりの特徴はまずなによりも同じことの繰り返しであり、またそこから帰結する「儀礼的性格」ないしは「演劇性」であるように思う。

 彼らが日常会話で話していることの少なからずは、わかりきった説教めいたものや(第2章)、しばしば互いがすでに内容を知っているような物語りである(第4章)。また、一つのやりとりのなかで同じやり取りが何回も繰り返されることがある。つまり語りのレベルでも、やりとりそのもののレベルでも同じ話が反復されているのである。

 たとえば、年長者が説教めいた話をするような場合は、聞き手は沈黙をはさみながら、タイミングよく相づちを入れたり、復唱したりして、ターンが非対称的に配分されていく(会話の形式化)。「すなわち、(〈形式的〉に対置される意味での〈実質的〉な情報交換をなんら行なう必要にせまられずに、会話者は相手に長い発話権(フロア)をあずけ、そのことばじりだけを協調的にひきとってゆく。そして相手の語りに一段落がつくと、いったんは協調の「身ぶり」をしてみせたあとに、〈唐突に〉セルフ=セレクトするのである」(104頁)。

 他方で、青年どうしでのやりとりでは、相手の非難に対する即座の反応する「押し問答」が繰り返され、頻繁に発話のオーバーラップが見られる(即自反射的な応答)。とはいえ、こうした応酬も「会話を続けることそれ自体を目的とし、かつ、そこにおいて、参与者間のありうべき関係のイメージがつよく呼び起こされるようなタイプの会話であるという意味において「儀礼的な会話」である(135頁)。しかも、ここでいう年長者との関係(忌避関係)ないし同世代的な関係(冗談関係)は、単に血縁関係から決まるのではなく、そのつどのやりとりのなかで定まるもので、相互行為から独立したものではない(第3章)。

 また、後者のような「押し問答」は、トピックこそ共有されてはいるものの、当のトピックをめぐって互いが異なる話を展開しようとしているのだとも言える。「並行的同時発話とはトピックはかろうじて共有されているものの、話者たちがオーバーラップしながらまったくかけ離れた内容をしゃべるものである」(153頁)。こうしたケースでは、それぞれがそれぞれの物語を語ろうとするわけだし、しかも、それがたいていわかりきった話で、注意深く聞く必要もないとなれば、彼らの話し/語りは、ある意味で、モノローグ的色彩が強くなってくることになる。「言いかえれば彼らは他者をはっきりとした「聞く義務」に拘束することなしに、「話す権利」を行使するのである」(158頁)。

 だが、他方で、相づちに加えて、相手の語りに唱和したり、相手の語りを引き継いでいくような同時発話(オーバーラップ)が数多く含まれていて、一つのあるいは複数の物語が協同してつむがれていくこともある(第4章)。「この会話においては、いっぽうが今まさに言おうとしたことを他方が〈ひきとって〉発話したとしか思えない局面がしばしば見られていたのである」(172頁)。「彼女たちは「ひとつの声」でひとつの物語を語っていた、というしかないのである」(177頁)。

 われわれにも、何かの話の途中に誰かと誰かが同じ間で同じ言葉を口にしてしまう瞬間というのがときどきあるものだが、ここで話されているのは、すでに知っている話である。「つまり二人はすでによく知っていることについて、再度(何度目かわからないが)しゃべっているのである」(175頁)。だから、なおさらのこと同時発話(オーバーラップ)、ひいては斉唱(ユニゾン)が多くなるし、しかも、その語りは直接話法でもってなされる。トピックに出てくる人物の発言をそのまま引用する「直接話法」を採用すれば、それだけ唱和しやすくなるのである。「それゆえ、「人間のことば」を直接話法で引用することこそが、ユニゾンという〈ことばによる一体化〉をもっとも実現しやすいのである」(180頁)。

「母と娘の会話」に典型的にみてとれるのは、お互いがすでに知り尽くしている過去のできごとを演劇的に再現すること、つまり〈かたりあう〉ことが、グイの日常会話にこよない楽しみと活気を供給し続けていることである。そして、このように、「すでに知っていることをかたりあう」という発話状況は、さきに私が同時発話に関する一時的解釈において強調した「認知的制約」が極小となる状況でもある(178-9頁)。
それと同様に、長いあいだ生活史を共有してきた間柄においては、ささやかなできごとを想起しなおすこともまた、演劇的快楽と結びつき、いっしょに〈ふりをまる〉活動となってわき出るのである。そのとき、同時発話とは、そのような協同の〈ふるまい〉そのものにほかならないし、さらにいえば、ひとつの声でうたわれる歌のごときものなのである(179頁)。

 繰り返されるやりとりは、それをつうじて何かを実現するというよりは、互いの関係を確認しあったり、やりとりそのものを楽しむという色彩が強くなり、だからまた一種のお約束として儀礼的な色彩が濃いものになる*1。そもそも互いが顔見知りで、同じことの繰り返しで生きる単純再生産のコミュニティでは、新奇な情報が舞い込んでくることは珍しいことだ。とすれば、この手のやりとりの道具立てが洗練され、増殖していくのは自然な流れだといってよいだろう。
 
 こういった傾向は会話の全領域に及ぶといってもよいと思われる。本書が確認しているところによれば、「貸せ」とか「払え」といった具体的な要求、つまり日常生活の必要と密接にむすびついたやりとりですら、主張-反論のような「押し問答」の反復を含んでおり、ただたんにその発話行為が遂行されているというだけではなく、互いのあいだに成立している関係の確認や周囲の人たちも含めて当の掛け合いを楽しむといった、やりとりそれ自体に志向した「掛け合い」が営まれている(もちろん、梯子はずしの可能性もあるのだが)。イスラム社会に残っているような、売値の決まっていない市での売買のやりとりなんかを想起してみてもよいだろう。あるいは、落語に「掛け取り」という噺がある。
 
 してみれば、オースティン/サールは、発話行為論を展開する過程で、最初にまじめな発話とふまじめな発話を区別したのだが、行為遂行的発言と呼ばれることになる発話は、もともと反復され、なかばお遊び的な性格をもって営まれるようなものだったと考える方が自然ではないか。この点でも、川田順造が、文字のない社会の発話の特徴を考えるために、「行為遂行性」と「情報伝達性」に加えて、「演劇性」という概念を導入していたことは興味深い*2

会話の人類学―ブッシュマンの生活世界〈2〉 (ブッシュマンの生活世界 (2))

会話の人類学―ブッシュマンの生活世界〈2〉 (ブッシュマンの生活世界 (2))

*1:たしか、サルズマンは強迫神経症における反復を儀礼として説明していた。

強迫パーソナリティ【新装版】

強迫パーソナリティ【新装版】

*2:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20091109/p1