菅原和孝『語る身体の民族誌』

 これを会話分析といわれると違和感が出てくる部分も多いが、これまで読みあさってきたなかで分かってきたことを確認する事例として。
 語りの繰り返しということや、

言うまでもなく、かれらはこの民話を繰り返し語っているのである。しかし、それは単純な反復ではもちろんない。前半部で明らかにされたプロットに、より具体的な詳細が付加されていくのである。ごく大づかみに言えば、この民話のプロットは、右のあらすじがすべて明らかになったあと、二回繰り返される(252頁)。

語りを支える「座」ということが川田本でも言われていたことに対応して、

この物語を「会話」としてながめたとき、そこにかなり頻繁な同時発話が生じていることに気づく。---。つまりすでにある情報を共有しているAとBが、それを知らない聞き手C(たち)に向かって、競いあいようにその情報を開示するという構造である。--。言うなれば、かれらはひとつの物語をいきいきと立ち現われさせるという共通のゴールにむかって、競いあいながら協力しているのである(254頁)。
興味深いことに、プロットが二度、三度とたどりなおされるにつれて、このような姉と妹の競い合いの非対称性は徐々にかげをひそめ、もっと対称的な「かけあい」の様相が濃くなってくる。--。新たな詳細をつけ加えさえしている。---。しかも、このような変移は聞き手の男たち、とくにQやKの語りへの積極的な参与が後半になるほど増加していくことと軌を一にして起こっているのである。このように、「物語」は語り手たちと聞き手の協同的な製作を通じてより深い彫琢をほどこされてゆくのだが、そのような「語られかた」は、〈歳の離れた姉と妹が男たちを前にして競いあいながらそれを語りはじめた〉という、この場に特異的なインタラクションの構造と不可分のものである(256頁)。

 また、こうした語りが道徳的な範例を示すものとして機能しているようだということについて

このような「合意」の更新、あるいは社会的に適切なセンスの活性化は、口うるさいばあさんのお説教のごとき、きまりきったテクストの再現によって実現されるわけではない。単に「語られかた」の構造が局所的な関係にうめこまれているというだけではなく、語られる「内容」それ自体が、参与者たちを包み込む当面の関係と二重写しにされているのである(257頁)。---。少なくとも、語り手たちが「物語」に託して自分たちが最近経験した現実の社会的葛藤を新たに参照し、解釈しなおしていることは確かである(258頁)。