「犯罪学者 ニルス・クリスティ」

 ノルウェーの犯罪者の更生施設やそこで暮らす「収監者」の様子を紹介しながら、ニルス・クリスティという犯罪学者に森達也が話を聞くというドキュメンタリー。見ていて正直のところ、ノルウェーのやり方に驚きをおぼえたし、いろいろ教えられるところが多かった。ノルウェーの試みは、言ってみれば、犯罪者に人並みの生活がどういうものかを教えるということになるように思う。

 われわれは刑罰にたいして、いまだに応報的なものを求めがちだ。たしかに、それはある程度必要なことなのだとは思う。しかし、犯罪者の更生ということを考えると、そこにばかり話が収斂していくのは望ましいことなのか、それどころか、かえって真の意味での償いにつながらなくなるんじゃないか、という疑問にかられた。

 日本の裁判、ないしは裁判報道でしばしば論点の中心としてあげられるのは「改悛の情」だ。とりわけ、少年犯罪の場合には、少年法のこともあるから、この点に注目が集まりやすい。でも、よく考えてみると、「改悛の情」に焦点をあてて人を裁こうとすることにはどこか無理があるように思える。

 これまで生きてきてみて実感するに、罪こそ犯してはいないかもしれないが、そんなことをやっといてという人が反省の念ひとつ示さないなんてことはいくらでもある。改悛の情というほど大袈裟なものではないかもしれないが、何かひどいことをしでかしてもほっかむりしている人なんていくらもいるのだ。で、最後の最後になって謝ったりする。政治家がよくやってきたように。

 となれば、裁判だって、被告が「改悛の情」を示しているからといって、それが本当に反省してのことなのか、減刑を期待してそう演じているかなんて分かったもんじゃない(JR西日本を想起せよ)。逆に、えん罪を主張してかえって「改悛の情」が見られないなんてことにされかねないんじゃ、報道されている現行の検察等の取り調べの実態を鑑みると、恐ろしいとすら言える。

 他方、よく指摘されるような、罪を犯した少年が「改悛の情」を抱いていないという話は、ある意味、大人のように「改悛の情」を演じてみせることができないだけで、その分、正直にふるまっているのだとも言える。こう考える余地があるならば、ここで問題なのは「改悛の情」を見せないことそれ自体以上に、なぜそうした気持ちを抱けないのかってことになりはしないか?法廷で示される「改悛の情」ってそこまで重要なものなのだろうか?「改悛の情」ばかりに注目して見過ごしているものがあるんじゃないか?

 「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。罪を犯した人間がしばしば問題のあるひどい生育環境や生活環境に置かれて生きてきたことは、日本でもそれなりに知られていることだ*1。凶悪な犯罪が起こるたびに「人の命の重みを知らない」という言葉が繰り返し口にされるが、じゃあその罪を犯した人間は、自分が尊重に値するだけの命を持った存在として、それまでどれほど扱われてきたことがあるのだろうか?それを無視して一方的に「命の重みを知らない」「改悛の情が見られない」とかいって、感情的に厳罰化を煽る風潮はどうなのだろう?

 ノルウェーでは、加害者と被害者のあいだで充分な話し合いが行われ、その9割が賠償や謝罪で和解し、裁判に至るケースは究めて少数であるそうな*2。また、裁判にあたって採用されている参審制という仕組みは、日本の裁判員制度みたいなものなのだけれど、その狙いは罪を犯した人物を知るということにある。いくらメディアでプライヴァシーが暴かれたところで、われわれはその人物を知らない*3。だが、実際に犯罪を犯した人物に会って、話をして、その人を知ればしるほど、その人間が自分ととりたてて違うところのないふつうの人物だということに気づいていく*4。そうすれば、厳罰化なんてことは考えられなくなるし、更生の機会を与えようということにもなる。ある厳罰化の急先鋒だった政治家が、参審員で担当した子どもには厳しい判決を下すことができなかったという。「この子だけは特別だ」と。

 ボクとしては、根本的なところでは、人は人を裁くことはできないと思うし(そもそも裁くためには裁く仕組みが必要になるのだ)、人が人を裁かなければならなくなる事態は不幸なことなのだと思う。だとすれば、極力、人が人を裁かなくてもよい仕組みを考えていくような試みは社会的に大切なことなのではなかろうか?そして、その礎になるのは、きわめてまっとうなこと、誰であれ、自分には住む家があり、それなりの生活を維持していける、それが当たり前なこととして受けとめられるような社会があることではないだろうか?

人が人を裁くとき―裁判員のための修復的司法入門

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障害者に施設は必要か―特別な介護が必要な人々のための共同生活体

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死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

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*1:たとえば、このあたり。

獄窓記 (新潮文庫)

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続 獄窓記

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累犯障害者

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あるいは、永山則夫のことを思いだしてもよいかもしれない。
無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

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*2:もっとも、日本の裁判だと「和解」ってかなり違った機能を果たしていることが多いような気がするけど。しばしば「オレが口をきいてやったのに」式の決着のつけかたになっているような---。

*3:たとえば、辺見庸は、ある死刑囚の調書を読んだところ、そこにあるのは極悪非道の極みみたいな言葉の羅列ばかりだったのだが、実際に会った本人は、調書の描写とは似ても似つかないふつうの人物だったことを記している。

*4:いまやこの国ではふつうの人間が犯罪を犯すという言い方で不安が煽られているのだが。