ル・ゴフ編『中世の人間』

 これも期待した内容からは少し外れた本だったけど、面白く読めた章もあった。とりわけ、グレイトゥゼンの話の先触れになるような部分。たとえば、都市にはギルドのような組合とは別に、かなり濃密な相互扶助関係を強いられる居住地区での顔見知り同士の関係がある一方で、そうした地域を横断するかたちで、やはり相互扶助的なギルドのような組合が組織されていく。

 地区や小教区の中でどの程度、社会的義務を強制されていたかを示す正確な資料は究めて少ない。だがその義務はいつも極端に濃密だった(183頁)。
 大半の人々は仕事の関係でたえす都会の中を行き来しなければならない(187頁)。都会の危険に立ち向かう、だが友人らといっしょに。自分のパン、生命、そして立派な死。それが各自に「会組織をつくらせる」主な動機である(188頁)。

 他方、中世から、教会人にとって、やはり都会人はいろいろと厄介な問題を持ち出してくる存在だったらしいこともわかる。神学者たちも都市の労働者について考えないわけにはいかなくなる。

 そこで都会の活動は労働、利益、貸しつけ、富、貧困の異議に関する「良心の問題」を多様化する(176頁)。
 重要な事実として、労働はもはや魂の救済を妨げるものではなく、また職人も商人もみずからの品格や社会的機能を疑っていない。都会では、本質的な道徳的境界線は「公共」のために働く人とそうでない人を区別している(198頁)。そこから高利貸しに対する聖職者の罵倒が生じる(199頁)。

 その一方で、

商人や都会人の意識において、富は身体とその「責務」、その運命と密接に結合していたので、隣人愛は以前よりもはるかに弱く、消極的な性質を帯びていた(301頁)。

 そこで、封建的関係は人格的な関係であるといわれるのだが、ブルジョアの場合、「下層民、職人、平民、つまり中世の都会における前-プロレタリア的構成員は、破廉恥なひどい搾取を受けた」(304頁)。
 しかも、ブルジョアにとって必要なのは「計算」であり、そのためにはブルジョア向けの学校や、ブルジョアを規定する行動やふるまいも必要になってくる。また、仕事の性質上、家族の意味も大きくなる。

商業活動をおこなうには、養成、それも特にある種の教育が必要であった(310頁)
風俗習慣のまじめさは都会の礼節の基本的価値であり、それはただちに態度や行儀に現れる(203頁)。
家族は大規模の商業や金融業の組織における主要な構造要素であった(324頁)。

 
 あるいは、J・C・シュミットの『中世の身振り』での議論を補ってくれるような記述。シュミット本によれば、神秘主義の登場がそれまでの節度ある身振りからのある種の「逸脱」として描かれていたのだが、この本によれば、その背景には、聖性がモノから精神性へ移行していく過程があったことになる。たとえば、キリストにならって献身的な生活おくろうとしたアッシジのフランチェスコはその好例である。
 また、シュミット本では演劇的性格の導入の一つとして紹介されている、説教師の役割、言葉の役割が大きくなっていく過程についても、同様にこの聖性が内的体験の問題へ移行していく流れを背景に想定できるということになる。そして、面白いことにこの過程において、言葉の優位が確認される一方で、身振りがより大げさなものになっていくのだ。

 かくて完全に聖性の内面的過程が現れる、つまり今後、社会的身分の違いを越えてキリストの人類のため献身すること、そしてキリストにならってキリストに追従しようとする願望に基づくこととなる(382頁)。