燐光群『BUG』

 これまで見てきた燐光群の芝居はすべて面白いと思ってきたけれど、今回の『BUG』はボクのなかでは保留。評価をどっちにしたものか固まらない。台風のせいも少しはあろうが、今回はなぜか客席もがらすき。迫力の演技ではあったけれど(でも、前半は主役の女性の演技がなんだかぎこちない感じがした)、舞台上で起こっていることだけを見ていると、これどうよという観は否みがたい。

 途中で見ながら思ってしまったのは、主人公たちには見えるというこの虫(BUG)が妄想なら、結局妄想が暴走する、つまり男女二人の主役の組み合わせたシステムにBUGがあるという話になってありきたりだよなー、といって「でも、実は」みたいな話になれば、映画でよくありそうな話ということになってしまって、どっちもどっちだよなー。でも、これボクには妄想話にしか見えないよ。それにずっとつきあわされるのはちょっと勘弁願いたいなーって感じでそのまま最後まで行ってしまったような(実際、しまいには私たちのなかに虫がいて---という話になっていった)。

 でも、そもそもフィクションなんだから、舞台で起こっていることを妄想だとか妄想じゃないとか決めつけるのはよく考えれば奇妙な話で(映画だったらもっと気楽に楽しんでるよ)、それを妄想だと決めつけそう思い込んで話を理解しようとしている自分は、逆にそんな妄想を抱く存在にリアリティを見出しているとも言えるわけで、それってボクのなかのBUGが暴走を始めたことになるのかもしれない。

 実際、この話のなかでは、男がこだわる妄想めいた虫の話と対比されるかのように、女の子どもがスーパーで蒸発したという話が用意されていて、こちらは妄想じゃないかのように受けとれる演出がなされているが(もっとも、ボクはこっちもほんまかいなと思いつつ見ていたのだが)、考えてみれば、虫も子どもも見えないのだから、二つとも確かめようのない話であることには変わりがない。

 そして、妄想が高じていった最後に、男が女に「君の知らないことは何だ?」と問いかけ、問いかけられた女は、虫の話と子どもの話という別の次元にあるように映っていた話を一つのものへと織り上げて「妄想」を完成させる。でも、この問いかけって奇妙だ。何が分かっていないかなんて分かるわけがない、というか、逆に、どのようにでも何とでも言える領域の話になってしまう。

 ところが、分かっていないことをつないで作られた話が妄想扱いされない世界というものがこの世の中にも存在する。ちなみに、主役の男は元軍人だということになっていて、彼の神経症的な姿に、戦場体験によるPTSD劣化ウラン弾化学兵器の類の副作用めいたものを投影するのは容易で、そうすると自然と浮かび上がってくる「現実」がある。

 実際、マスコミが大騒ぎした一連のオウム報道や凶悪犯罪が起こるたびに始められる姿なき犯人像の憶測、あるいは北朝鮮拉致問題、そして、何よりもイラクへの化学兵器疑惑とか、メディア上では分かっていない話をつなぎあわせた陰謀話の類がいくらもたれながされていて、イラク侵攻のように、実際、そこにリアリティが認められてものごとが動いてしまうということすらある。つまり、「現実」を生きるわれわれのアタマの中にもBUGがあるのだ。

 だからといって、BUGを妄想としてつぶそうとすれば、かえってBUGにこだわっていることになり、ますます妄想に足をすくわれてしまうにちがいない。ここで、再度舞台の方に戻れば、この話、最初は一匹だったBUGが次第に増えていき、しまいには自分たちの内側に巣くって増殖している、だから---という自滅の末路を迎える。つまり、BUGを見つけてはつぶそうとするたびに、BUGが増殖し、自分の内側深くに食い込んでくるのだ。

 そんな感じで、もしこの舞台が、舞台と客席の境界を超えてわれわれのなかにあるBUGを小突いているのだとすれば、この話、一見退屈だけど、もしかするとスゴイのかもしれないということになる。これって考えすぎかな。