少年王者館『夢+夜』

 さて、これが何作目になるのだろうか?とにかく独特のせりふ回しや振り付けだけでとてもインパクトがあるのでなんだかよくわからなくても、力業で魅せられて、それで十分楽しめてしまうのだが、回を重ねるにつれて細かいところに目が向けられるようになってきた気がする。

 この作品でも、反復する時間や遠い過去の記憶への遡及、そして踊りわめく少女(?)たちといった、他の作品でも繰り返されるモチーフが登場するのだが、見ていてこの話の中心に位置しているのは「母親殺し」ではないかと思えた。これは寺山修司を思い出させる*1

 主人公には思い人がいるのだが、彼女は母に重ねられており(この設定は前作の番外編でも同じだったはず)、二人のちゃぶ台を前にしたやりとりで男が「母はもう死んだけどね」というと、彼女は「私も死ぬわ」と受け、実際に死ぬことになる。また、舞台上の話の流れなかで、主人公は、どうしても鉄パイプである男をたたき殺してしまい、なんとかそんな自分の人生をやり直そうとして、話の流れを部隊の始まりまで戻すのだが、結局同じことを繰り返してしまう。ところで、このジャージ姿の男は、前作の番外編では、台本を書いているこの舞台の脚本家という設定で登場した人物をまったく同じ姿格好をしている。つまり、主人公が殺してしまうのは作品の「生みの親」なのだ。そして、殴り殺しの繰り返しの挙げ句、もうあれは使えないから代わりに他のを使おうと、身代わりに用意されるのが彼女だ。

 そして、この舞台で起こっていることは彼女の夢であり、主人公をはじめとする登場人物は彼女に夢見られているという設定になっているのだが、ここでも彼女、「生みの親」、母親が重なってくる。ちなみに、この他人の夢に見られているという話は、寺山の『レミング』のなかにも出てくるものだ。

 ところで、母親に夢見られているっていうのはどういうことだろう?たとえば、それを近年の親殺しやK容疑者の話に重ねることは容易だ。母に夢見られた人生、つまりは、決められたレールを走るだけの自分自身の人生を生きられない人生、だから、いつも同じことの繰り返しになってしまう。あるいは、いつまでも母に夢見られて、永遠に子どもであることから抜けられない人生。そうすると、登場人物たちをとりまく少女たちは実は少女というよりも、永遠に大人になることのない天使たちなのではないかと思えてくる。しかも、その天使たちがつぶやく言葉は決して明るいものではない。、

 そして、その母はもう死んでいたことになっていたのだった。母殺しも母の夢のなかの出来事でしかない。また、この舞台背景は駅になっているのだが、最後にもう最終列車は出てしまったと告げられる。つまり、ここから新しい出発が始まることはない。すべてはもうすでに終わっており、同じことが繰り返されるだけ*2

 一見すると世界観がまったく違うので関係ないように感じられるかもしれないが、そんな筋立てにたとえば村上春樹のそれを重ねて見ることができるかもしれない。寺山を思わせるな土俗的な雰囲気が漂い、いろんなアイテムに満ちあふれ、一見すると楽しそうな舞台、でもそこで生きられる生は実はちっとも楽しくないのかもしれない。これってフェリーニっぽいかな(たとえば、『甘い生活』)。なんかとてもポストモダンか感じがしてきた。

*1:そして、興味深いことに次回は寺山の『田園に死す』を演出するらしい。どんなのになるんだろう

*2:あるいは、しばしば同じセリフや場面が繰り返され、そのなかで相手のセリフに自分のセリフを重ねては少しずつずれていくセリフ回し、それはある種のリズムを生み出す一方で、誰かの歩んだ道を歩んでいるってことになるのかもしれない