もう一つビジネス倫理学

 手許にもう一冊だけ放置してあったビジネス倫理学の本ということで、これも読んでみるつもりでいて、出先でぼちぼち読んでいたものをやっと読了。多岐にわたる問題が取り上げられていて、個々の論点についてはいろいろ興味深く読めるものがあった。とりわけ、ボクが面白いと思ったのは内部告発を扱った奥田論文で、この話はとてもよくわかる。似たような局面は内部告発以外の場面でも考えられるだろうし*1。ちょっとだけ引用しておくと、

内部告発者は、組織内部での不正にきづいてしまったことによって、こうした自分の周囲の人びとの「思考欠如」にも気づいてしまうのである。一度この事実に気づいてしまうと、もはや引き返すことはできない。「ベールの背後にある真実---を知ることは、すでに社会的に死んでいることである。すなわちそれは、それを知らない人びとと何の留保もなく一緒にいることができないということである」。しかも、内部告発者は「思考欠如」の人びと対極ですらない。なかったはずのことを「あった」と言い立てる者は、やはり何かが欠如しているとみなされる。こうして、内部告発者は、石を投げられたり恨まれたりするよりもむしろ、冷遇あるいは無視されるのである(190頁)。

 ただ、一方で、この論文って倫理学の論文でなければならないのだろうかとも思ってしまった。たとえば、これが組織社会学ないしは経営学内部告発が組織内でどのような機能的帰結をもたらすかを考察する論文だったとしても違和感なく読めてしまうような気がする。本書の他の部分でも似たような印象を受けた。(哲学的な)ビジネス倫理学ってどういうものなんだろう?まあ、どうでもよいことなのかもしれないけれど。
 
 利潤追求を旨とする企業体そのもの、ないしはその組織に所属する個々人にいきなり過大な道徳的責任を担わせようとすることは、現実的ではない。だから、アクターが道徳的にふるまえるためにはどういった制度設計をすればよいかみたいな社会工学的な議論が必要になる。読んでいると、話はこういうところか、その周辺に位置付くようなところにだいたい行き着いている。多分、こうしたタイプの議論が、少なくとも一つの中核的な論点になるのだと思う。そうすると、動機づけの問題とか機能主義的な発想法に馴染んだ人間には、ここでなされていることはそれほど縁遠い話ではないものに読めてしまうのだ。
 
 それから、制度設計ということでは、しばしば専門職集団ないしは職能団体に何がどこまでできるのか、できないのかということが言及されている。忘れられかけているような気もするが、これは社会学にとっては馴染みのある話だ。というのも、すでにデュルケムが、無規制的な分業が進行する産業化した社会で、道徳的な個人主義を組織する支えとして考えていたのが、同業組合だったからである。まあ、そもそも領域横断的な話だってことですね。
 ところで、専門職集団ってことでは、大学もそうなはずなのですが、実際のところどうなんでしょうね。ま、言わずもがなか。

ビジネス倫理学―哲学的アプローチ (叢書 倫理学のフロンティア)

ビジネス倫理学―哲学的アプローチ (叢書 倫理学のフロンティア)

*1:翌週、現在、回顧上映中のキュシロフスキの初期作品『平穏』と『スタッフ』見てきたが、この二つはいずれもそんな感じの作品だった。ただまじめにふつうに働いていきたいだけなのに、体制か仲間か選択を迫られる。ここでは誠実性が自分自身を傷つけてしまいかねない。