『ポロック 2人だけのアトリエ』

 しばらく前に放映された『ポロック』を見る。熱演する主演のエド・ハリスが監督もこなしている。映画のできとしてはいまいちな感じもするが、ジャクソン・ポロックがどんな人物かを描くという点ではかなり面白かった。この映画に、ポロックの父親は出てこない。母親も出てくることは出てくるが影が薄い。情緒不安定で酒浸りのポロックが頼りにしているのはやはりニューヨークで絵を描いている兄。そんななか、彼の才能に惚れ込んだ女性画家リーと付き合い始める一方、頼りにしていた兄は戦争をきっかけに絵をやめてニューヨークを去ってしまう。

 リーは、ポロックにグッゲンハイムや批評家クレムを紹介するきっかけを作り、結婚を望むが子どもを作ることは拒絶する。あんたの世話をするだけで手一杯だと。言い換えれば、彼女が惚れ込んだのはポロックその人というより、ポロックの才能であり、リーが果たそうとしていたのはポロックの妻というよりは、ポロックの母親だ(そして、これが母親の愛情としてはいびつなものであることはいうまでもなかろう。その顛末は、ポロックのもとを訪れた彼の親兄弟の家族とポロックのやりとりをみればよく分かる)。他方、グッゲンハイムを介してポロックを知るようになったクレムはポロックの作品に惚れ込むようになる。

 つまり、売れないポロックだが、それでも彼が酒におぼれ精神的につぶれることもなく絵を描き続けることができたのは、その才能ないしは妄想を支える、母性的なものと父性的なものがリーとクレムという形で存在していたからだ。たとえば、クレムが失敗作だ評する絵を、酔っぱらったポロックが「じゃあ直してやる」といいながら持ち出してくるのだが、結局、絵をいじることができない。自分としてはすでにできあがっている作品だからだ。その手が止まった姿を見て、クレムが「人にどう言われようと、できないよな」。「それでいいんだ。大したもんだ(something)」と応じるあたりは愛情に裏打ちされた厳しさをよく示している。そんななか新しい画法を見出したポロックは自ら酒を断ち作品制作に打ち込み、成功を手にすることになる。

 じゃあ成功するって一体どういうことなんだろう?ポロックの場合、この成功は、自分の妄想の支えであるリーやクレムの存在を不要にしてしまうが、他方で、得られた成功はコマーシャリズムと深く結びついたどこか虚しいものだった。そんな成功はリーやクレムといった自分の妄想を支えてくれる人たちから得られた賛辞とはまったく違っている。 それを象徴するのが、彼の作品の制作過程を映画にするという話(これをきっかけに再度酒を飲み始める)。だから、ポロックは言う。 「自分が偽物になったような気がする」と。これはのちに「ファクトリー」を作ったウォーホールとは対照的だ。

 そんなわけで、いわば成功の結果、ポロックは自らの才能から疎外されてしまう。この点で成功したポロックの二度目の個展の会場で、ポロックがリーを見つめるさびしげな表情がなんとも印象的だし、この二度目の個展を前に出展する絵を激賞するクレムが、一方で絵は売れないだろうと付け加えると、なぜかポロックが安心した表情を見せるのも印象的だ。

 となれば、その先は見えている。成功を手にしてしまったとき、どうすればいいかは誰も教えてくれない。言ってみれば、成熟の段階が訪れたのだ。リーは、ただ酒をやめて絵を描けというだけ、クレムは評論家として冷静に最近の彼の作品を他の画家と比べるしかない。だが、自分の絵が駄目なことをいちばん分かっているのはポロック自身だ。クレムはポロックにこうアドバイスしてきた。「イメージに逃げるな」。ポロックはまさにそれを地でいったことになるのだが、その先は誰にも見えていない。妄想の依存先を失い、精神の平衡状態を保てなくなったポロックは、次のステップに進めないかぎり、酒に溺れて死ぬしかあるまい。天才が持って生まれた過剰な才能とそれゆえに生まれてくる苦悩と「限界」、そんなことを思わせる作品だった。