小泉恭子『音楽をまとう若者』

 さて、今度はポピュラー音楽研究関連文献読書月間ということでいくつか読んでみたけれど(お仕事、お仕事)、ボクには、この本が典型的にそう読めるような、ポピュラー音楽研究というよりもイマドキノ若者の友人関係を考察したものが面白かった。もちろん、音楽については趣味が細分化しているとされる近年の若者たちにとって、音楽話が友人関係を再生産するトピックとしてどれほど有効なのかという疑問はある。この本でも、取り上げられている場面は、相対的に音楽の話題がレリヴァントになるような場面ばかりで、日常的なやりとりをベースにしているわけではない。それでも、得られるところが多いように思う。

 基本的には、高校生が音楽について語るときの語り方に応じて、それは自己との距離に応じて決まるものとされる、三つの音楽の類型を設定し、この三つの類型がコミュニケーションの資源としてどのように活用されているかを明らかにしてくものだといってよいだろう。そして、そこで確認されていることは、たとえば、土井隆義さんの『友だち地獄』で確認されているような「優しい関係」のそれとかなり重なるように思われる*1。とりあえず、この三つの類型を確認しておこう。

「パーソナル・ミュージック」は、生徒が日常生活で個人的に好んでいる音楽である。アイデンティティに密接に関わるために、公にさらけ出すことには慎重になりがちだ。とくに教室のようなフォーマルな空間では、グループに共通した音楽を先に確認しなければ、自分の立ち位置を確認することができない。このとき、個人の音楽嗜好の位置を測る目安となるグループ共通の音楽が、「コモン・ミュージックである。これは同世代に共通する音楽で、生徒同士が話す場面で共有される。教師や親世代と話す場面には、さらに異世代に共通する音楽である「スタンダード」が登場する(57頁)。

 そして、男子と女子とでは、男子の方がパーソナル・ミュージックついて語ることに抵抗感がなく、また、パーソナル・ミュージックをめぐる語りは、それが語られる場面の公式性に応じて、抑圧されたり自由度が増したりするのだという*2

 たとえば、フォーマルな場面とされる音楽の授業中の教室での語りでは、こうした男女の差異が顕著にあらわれてくる。

女子に比べて男子は、たとえ教室の中でもパーソナルなミュージックについて語ることに抵抗は示さなかった。コモン・ミュージックを確認することで、そこから距離を測りながら自分のパーソナル・ミュージックを語り、グループ・アイデンティティを動的に構築していくという見えやすい「戦法」に慣れているからである。それに対して、女子はパーソナル・ミュージックを尋ねても終始口ごもり、変わりに二重三重の鎧である他のカテゴリーについて語るという「作戦」を取っていた(72頁)。

 とはいえ、男子にとっても、コモン・ミュージック(ここでは、ヴィジュアル系)とパーソナル・ミュージックとの位置取りは微妙なものがあり、仲間内で「多数派に属するマニアックなリスナー」として卓越化の戦略を採ろうとすれば、パーソナル・ミュージックは典型的なコモン・ミュージックに位置づけられるものであってはならず(ここでは、GLAY)、むしろ周縁部分に位置するものが好ましい(ここでは、MALICE MIZARE))。といって、パーソナル・ミュージックがコモン・ミュージックから外れてしまえば(ここでは、ミスチル)「少数派の真面目なリスナー」として仲間内から浮いてしまう*3。とすれば、男子のなかでも音楽をめぐる語りにある種の抑圧が働くことがあったとしてもおかしくないと思われるが、先述のようにそれが強固にあらわれてくるのはむしろ女子の方である。ここに見いだされるのはいわゆる「優しい関係」である。

グループ・アイデンティティ構築の力学にのっとるなら、パーソナル・ミュージックを公にすることを比較的厭わない男子に対し、女子はパーソナル・ミュージックを胸の内に秘めるため、仲間とコモン・ミュージックを共有して連帯感を演出する傾向が強い。カラオケの楽しみ方も男子と女子では異なる。男子は他のメンバーに構わず自分の好きな音楽を歌い続けるが、女子は仲間の知っている曲を歌って場を盛り上げようとするという(58頁)。

 しかし、さらにそれが、課題曲がクラッシック中心でそれがコモン・ミュージックになる、フォーマルな空間とされる吹奏楽部では、パーソナル・ミュージックについて語ることにたいしてより抑圧的になる傾向が見いだされる。フォーマルな空間は、学校で正統化された知識の動員可能性から定義されるが、正統化された知識がレリヴァンスを持つ空間では、当然、各人はその知識を動員することで、その場面にそったアイデンティティを獲得することができるからである。

教室では女子がパーソナル・ミュージックについて口を閉ざし、吹奏楽部では男女ともパーソナル・ミュージックについて語らたがらなかった。強いていえば、吹奏楽部ではパーソナル・ミュージックを話したのもやはり男子だった(90頁)。

 他方、セミフォーマルな空間とされるフォークソング部での音楽をめぐる語りでは、よりジェンダー差が顕著になる。ここでは仲間を募ってバンドを組むことになるわけだが、「バンドで演奏する音楽と自分の好きな音楽が違えば、脱退して新しいメンバーと組むか、自分のパーソナル・ミュージックをバンドのコモン・ミュージックに昇格させるしかない」(111頁)。

セミフォーマルな空間では、男子部員はパーソナル・ミュージックを隠さない分、バンドのコモン・ミュージックとの相違が顕在化しやすい。パーソナル・ミュージックとコモン・ミュージックの隔たりを解消するため、前進して闘うか、最初から戦いを回避して他の空間にアイデンティティを求めるかで、二つのバンドのメンバーは異なる戦法を取った(119頁)。
女の子バンドにおいて音楽嗜好が男の子のバンドほど重要にならない理由は、女子はバンドのコモン・ミュージックを前面に出し、パーソナル・ミュージックの存在自体を隠すからだ。女子はこのような不可視な作戦を採るため、他者の出方を牽制し合うあまり、先に人間関係が崩壊してしまいやすいのだ」
(124頁)。

 というわけで、男子が音楽性を重視するのにたいして、女子が人間関係を重視する傾向があるということになる。とはいえ、男子バンドにも似たような傾向がないわけではない。本書では、「高校生バンド・イベントにおけるバンドを、「オリジナル系」「古典ロック系」のように音楽に向き合う姿勢が真剣で、広い聴き手に発信しようとしていたバンドから、「おたく系」「盛り上げ系」のように内輪で楽しめばいいというバンドまで、音楽への関わりの深さの順に紹介し」ているが、後者の系列にはパーソナル・ミュージックを隠す傾向があった。
 
 学校空間から切り離されたインフォーマルな空間でも、セミフォーマルな空間で確認された事態がより顕著なかたちで確認される。男子はより音楽性を重視できるようになるのだが、女子バンドはやはり限界をひきずっている。

ホンネトークはバンド少年からも聞かれた。インフォーマルなバンド文化ではパーソナル・ミュージックを隠さない分、誰の好きな音楽をバンドのコモン・ミュージックに昇格させるかの戦いが熾烈になっていた。男の子バンドでは、父親から古典ロックやポップスの相続資本を受け継いだメンバーの方が家庭で時間をかけて知識を身体化していたため、仲間から影響を受け獲得資本として学習していたメンバーよいもバンドにおける力が強かった。女の子バンドでは、役割モデルを欠いていたことやオリジナル作りに踏み出せなかったことなど、バンド少女の課題が浮かび上がった(215頁)。

 また、インフォーマルな空間ではリスナーも取り上げられることになる。ここだけリスナーが取り上げられるのが、奇妙に思えたが、著者によれば、インフォーマルな空間やセミフォーマルな空間でリスナー専門の男子を見つけるのが難しかったのだという。そして、その理由として、仲間が見つけにくい(たしかにそうだ。ボクらの頃なら、聴取専門の音楽サークルというのは大学にしかなかった)、高校生のポピュラー音楽の知識が浅いといったことが指摘され(オールディーズ番組や洋楽番組が減ってきているから、ラジオ等から音楽の知識を身につけるのが難しくなってきているのも確かだと思うが)、そこから「リスナー少年は、パーソナル・ミュージックをまだ模索している段階ではないか。コモン・ミュージックを確認できなければ、差異化のツールとしてのパーソナル・ミュージックを選びにくい状況が続くからだ」(160頁)といったまとめ方がなされる。

リスナー少年は群れずに孤立して音楽を聴いていた。バンド少年のように同世代の仲間と音楽についての意見を闘わせる機会がなかっっため、パーソナル・ミュージックも不確かなままだった。同世代と語るという「闘争」なしにはコモン・ミュージックの枠組みを見いだせず、ひいては自分の立ち位置がわからなくなるからだ(214頁)。

 実は本書で一番違和感を覚えたのがこの部分だった。ここまで指摘されてきたのは、音楽を媒介とした人間関係の作り方であって、それは必ずしも自分の音楽的嗜好の作り方とはかぎらない。そもそも音楽情報の入手先は友人関係だけとはかぎらない。しかも、基本的に音楽の聴取形態は、オーディオ機器が普及して以降、きわめて個人的なものになっている。音楽を楽しむために、それを誰かと分かち合わなければならない必要はないし、ましてや、それがフォーマルな場面でとなればなおさらだ*4

 しかも、現在では音楽の趣味がきわめて細分化していると言われている一方で、日常的に常時音楽で満たされるようになった空間のなかで聴取行動そのものも変化してきていると見られる。たとえば、阿部は別の論文で以下のように指摘している*5。「この背景には、やはり音楽の消費行動が、ブランドとしてのアーティストに深くコミットして消費するという行動が主流ではなく、むしろ、音楽そのものを快楽的に消費したり、コミュニケーション・ツールとして消費するなど、コミットの度合いが浅い消費行動であることを示唆している」(52頁)。
 
 となれば、ヘヴィー・リスナーがフォーマルな場面では浮上してこず、なんとか見つけだせるのが浅いリスナーになってしまったとしても、それはアイデンティティと結びつけるまでもなくかなり自然なことなのではないだろうか*6

 また、本書では、若者が資源として用いる音楽を三類型に分けるとき、「パーソナル・ミュージックがアイデンティティと密接にかかわる」という言い方をしているが、この言い方はおそらく正確ではない。まず「グループに共通した音楽を先に確認しなければ、自分の立ち位置が確認できない」のであれば、コモン・ミュージックについて「語る」ことも同様にアイデンティティに関わっている(実際、議論ではそうなっている)。そのうえで、パーソナル・ミュージックについて「語る」ことがパーソナル・アイデンティティとより密接にかかわってくるといった言い方をした方が事態を正確に現していると思う。

 他方、バンドをやろうとすれば、音楽について語らなければならないが、聴取に特化するかぎりは、必ずしも音楽について語る必要はない。パーソナル・ミュージックがアイデンティティに密接に結びついてくるのは、それが他者に向けて「語られる」からであって、語り出すことがなければ、それが友人関係等のなかでアイデンティティに結びつけられる必然性はないのだ*7

 むしろ、面白いのは、バンドのなかでは立ち位置を確保できずにいた女子がコスプレ・リスナーとして立ち位置を確保しているということだろう。「対照的なのがリスナー少女の群だった。---。男性が支配的なロック分かにおいて、リスナー少女が居場所を発見するためには、パーソナル・ミュージックを視覚化し、見て見られる快楽を得るコスプレの衣装という「聖戦の剣」を身につけて一致団結する必要があったのだ」(214頁)。もっとも、「掛け持ち」もするという彼女たちをはいわゆる「リスナー」らしいリスナーとは言いにくいところがあるように思える。というのも、「彼女たちがバンドのコスプレ・ファンになる前にマンガやアニメの美少年キャラクターに入れ込んでいて、ヴィジュアル系のバンドの化粧をした男性メンバーをその延長上でとらえていたことに起因する」(182頁)といった指摘があるからである。

 そして、後述する点にもかかわってくるのだが、この説明はコスプレ・リスナーの立ち位置の確保という点では不充分な説明ににとどまっている感じがする。男子バンドがコモン・ミュージックをめぐってヘゲモニー争いをくりひろげてきたように、同じバンド、ないしは特定のメンバーのファンということになれば、バンドの場合と同じように、コモン・グラウンドを提供する一方で、これは競争的な側面をも提供してしまうように思われる。そして、こうした事態の到来を避けることが女子バンドの足枷になっていたのである。同様の事態はコスプレ「ウォナビーズ」についてはあてはまらないのだろうか?

   To be continued. http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090615

音楽をまとう若者

音楽をまとう若者

*1:

友だち地獄 (ちくま新書)

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学生の話によれば、この話の第1章はとりわけリアリティがあるそうで、中高時代はとにかくなにごとにおいても突出することを嫌うと。だから、文化祭で何をやるかを決めたり、委員を決めたりするようなときには、誰も何も意見を言わない。だから、先生がアンケートをとったりする。また、誰かがたまりかねて意見を言うとそれで話が決まってしまったりするのだが、あとから違う方がよかったとか文句を言われることがあるそうな。

*2:ここにジェンダーの問題があるのは確かだが、行論で明らかになると思うが、この点をストレートに家父長制話に結びつけてしまうのはちょっと安易ではなかろうか(そういう一面があることまで否定するつもりはないが)。「日本の文化的・歴史的伝統が、教室の女子を従順で遠慮がちにしている可能性は高い」(76頁)。むしろ、こんな本の話なんかが関係してきそうだ。

もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ

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女の子どうしって、ややこしい!

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母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)

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*3:もっとも、ヴィジュアル系というのは音楽のジャンルとは言い難いところがあるから、これがコモン・ミュージックの境界になっているというのは、ちょっと奇妙な印象を与える。ある意味で「ヴィジュアル系」とは中身のないカテゴリーなのだ。これは辻泉が「アイドル」について指摘する「中身のなさ」に匹敵するように思われる(後述)。

*4:たとえば、阿部勘一は「聴衆の批評「空間」すなわち音楽に対する様々な「語り」を行う機会や場は増えている。にもかかわらず、その「空間」は狭窄していることにある」(63頁)。他方で、同書で南田が「音楽誌の終焉」の機能の指摘しているのは興味深い(154頁)。

拡散する音楽文化をどうとらえるか (双書音楽文化の現在)

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*5:

ポピュラー音楽へのまなざし―売る・読む・楽しむ

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*6:小泉が参照しているデータでは以下のような傾向が確認されている。「高校生にとっての音楽は、仲間と楽しみ分かち合うものという傾向が強い半面」、「内面に訴えかける性質を重視していることもうかがえる」。一方、「人との交流を仲立ちしてくれるもの」という回答は」少ない(161頁)。

*7:これは、渡辺が指摘するように、日本ではロックが一時期をのぞいて「アイデンティティの音楽」にならなかったということと関連してくるのかもしれない。「ロックをアイデンティティの音楽としてとらえる自覚。それは日本のなかあでは60年代後半の一時期をのぞけばきわめて見つけにくい状況にあった」(203頁)。

アイデンティティの音楽―メディア・若者・ポピュラー文化

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この点にかかわる日本のロックをとりまく状況については、たとえば、南田の以下の本の日本のロックを取り扱った章を参照のこと。
ロックミュージックの社会学 (青弓社ライブラリー)

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