やったことは許せないが---

 必要が生じてアキバ事件がらみのものを今ごろいくつか読んでいる。これは、「あ、こんなの出てたんだ」という感じで見つけて読んだ一冊。中身についてはあまり言うことがない。もともと、この手の事件を社会問題から説明しても事件そのもにについて語りきることはできないだろうというのがある一方、事件を介して考えるべき社会問題が見えやすくなることはあるし、それを語ることは必ずしも悪いことじゃないぐらいの感じでいるからだ(ただし、なんらかの事件が起こらなければ、その手の問題を考える場所が広がらないというのはそれ自体問題だとは思う)。
 
 一つ気になったのは、この本のなかの発言者にかぎったことではないが、「やったことは許せないが、K容疑者に共感できることろがある」式の、いったん留保したうえで、犯人に共感や同情をよせようとする語り方がきわめてひろく見られるということだ。これは裏を返せば、犯人に共感したり、同情したりすることが、犯行を肯定することにかぎりなく等しいと受け取られかねないから、そのために留保が必要になるということを暗示しているように思う。
 
 しかし、なんで犯人に共感したり、同情したりすること自体が、犯行を肯定することと有徴的な関係を結んでしまうのだろうか?また、発言者はなぜそれを気にしてしまうのだろう?だって、容疑者がしでかしたことから、予想される法的処分がどんなものかは誰にも予想が着くわけで、いくら同情したってそれがひっくりかえるわけではない。ましてや、あえて司法制度をを批判した上で同情したり、共感しているわけではないのだから*1
 
 この点で興味深いと思ったのが、もう一つ別の本のなかでの内田樹による「「ひとつの出来事の解釈の解釈可能性から、自分にとって最も不愉快な解釈を組織的に採用すること」は私たちの社会では「政治的に正しいこと」として」(121頁)推奨されているという指摘。政治的かどうかはともかく、これはそうだと思った。この事件にかんしてなら犯行の動機を不透明なままにしておくことが、その一つに相当しよう。そうすると、「やったことは許せないが」という前置きも、自分にふりかかってくるかもしれない不愉快な解釈を忌避するための防衛線になっているように聞こえる。
 
 もっとも、昨今の日常生活のなかで、そんな風に考えたくなる局面は結構あるに違いないと思う。たとえば、物事をなるべく悪意的に解釈しようとするタイプの人ってそれなりにいるし、あるいは、そのように考えざるをえなくなる局面に置かれている人もいる(たとえば、ちょっと想像力を働かせれば、仕事などでその人がしんどい状況にいることが分かるのに、場合によっては当人がそれを訴えてすらいるのに、周囲の誰もが手をさしのべず放置すればそう考えやすくなる)だろう。そして、そうした人間の不平不満に巻きこまれたときに、「なんでオレが」というわけで、(なんらかの歯止めがかからなければ)周囲の人間も同じように物事を悪意的に解釈しやすくなるという悪循環は、いまの社会状況ではとてもとてもありそうな気がする。これって囚人のディレンマ話だよね。
 
 当然、こうした状況は、他者への共感を難しくする。あるいは、他者への共感が難しいから、そういう方向へ進む。ってこと自体が問題なはずだと思うので、この前置きの増殖それに自体が、それを単純に語り手の問題だなんて思ったりはしないけれど、かえって問題の所在を浮き彫りにしてしまっているような気がした。

ロスジェネ 別冊 2008―超左翼マガジン 秋葉原無差別テロ事件「敵」は誰だったのか?

ロスジェネ 別冊 2008―超左翼マガジン 秋葉原無差別テロ事件「敵」は誰だったのか?

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

*1:この本のなかでも指摘されていたが、犯行を社会的問題に結びつけて犯人に同情を示すことにもっと寛容な時代だって存在したのだ。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/searchdiary?word=%CB%DC%C2%BF%BE%A1%B0%EC&type=detail