『リア王』(1971)

 先週から近所で、旧ソ連時代のロシア映画特集をやっている。2週で何本もやってしまうので、とうてい全部、いや半分も見ていらいれないのだが、この時期のロシア映画って見応えあるなー。で、今日は『リア王』を見てきたのだが(音楽はショスタコーヴィッチだったらしい)、ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』を念頭に置くと、この話もまた違った味わいが出てきますな。とりわけ領土を譲ってしまうということがどんな意味を持つのかについて。
 それから、お追従が述べられないというコーディリアとそれに怒るリアだけど、これって同時代的に考えるとどうなんでしょうね。以前、福田恒存の『人間・この劇的なるもの』に言及したとき、最後に「ハムレットはホレイショーに、他人の目には見えぬ自己の心事を語り告げるように頼んでいる」が、その背景として「行為以外に自己を形づくり決定するものはない。外面的な行為のほかに内的動機を信じないというのは、おそらくエリザベス朝時代における一般イギリス人の、かなり普遍的な生活態度であったように思われる」(71頁)という話を引用しておいた*1。そうすると、このリアの反応は自然なものと受け取られていた可能性もある。
 ほんとにそうなら、悲劇の背景に喜劇があるというか、生前に領土を譲ったリアは間抜けで、お追従を述べられなかったコーディリアも間抜けだという話になりかねないのだが、あるいはそこには新たな人間像が描かれているということなのか。シェークスピア研究とか調べるとすぐにわかることなのでしょうけど。

リア王 (光文社古典新訳文庫)

リア王 (光文社古典新訳文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)