足りないのはナショナリズムである

 ボクはこういうことを言うガラじゃないと思っているのだが、そうは言いつつ、最近、時々こんなことを口走っており、この雑誌の特集を読みながら、また、それがアタマにもたげてきたので、この際書いてしまおう。日の丸・君が代が事実上強制になり、教育基本法が「改正」され、日教組つぶしが露骨に自民党議員の口から出るようになる一方、中国や韓国にたいする嫌悪感があからさまに口にされる現状について、右傾化への懸念とか、ナショナリズムへの懸念とかが叫ばれたりすることがしばしばあるわけだが、そして、その気分は分からないわけじゃないが、ボクはそれってどこか違うんじゃないかと思っている。

 しょせん、前者については政治家が煽ってるだけの話だし、後者については自分たちと「他者」を比べながら悪口を並べ立てているだけの話だ(もちろん、だから軽くみていいというわけではありませんよ)。いずれも、ナショナリズムといっても、主眼は攻撃対象の方にあって、同胞にはほとんど眼が向けられていない。この国の現状を考えれば、いまとなっては大して力もない日教組を批判するよりはよほど大切なことがあるだろうに。地方の病院をつぶしっぱなしにしてていいの?フリーター云々みたいな話になると、彼らの能力の低さばかりがあげつらわれ、ナショナリズムはなかなか発動されないようですが。組合にしたって正規社員の雇用を守ること以上に踏み出せないじゃない。

 小泉構造改革以降に進んだのは、利権の再分配であって、みんなで自分の利権を守るのに汲々としている。そこにルサンチマンが生まれる余地はあっても、ナショナリズムが割ってはいる余地なんてないんじゃなかろうか。歴史的にみても、この国に、一時的な盛り上がりのようなものをのぞけば、どれほどのナショナリズムの発露があったのか疑わしく思える。この点で、安丸さんのこの指摘に私はうなずいてしまうのである。
http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090406/p1

SIGHT (サイト) 2009年 07月号 [雑誌]

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