アンドリュー・ワイエス、あるいは「吊す」ということ

 日中、ずっと本を読んでいたらくたびれますよ。そして、金曜日は有り難いことに6時をすぎても美術館がやってますよというわけで。つい最近亡くなってしまったアンドリュー・ワイス。思わず見ほれてしまう感じ。
 見ていくと、納屋に馬具が吊しているとか鳥の死骸を吊した案山子の絵があったりしてという具合に、何かが吊されている光景を描いた絵が結構ある。何かを吊すとき、われわれはそれを吊したらどうなるかまでいちいち正確に考えたりはしないだろう(もちろん落ちないように気をつけはするだろうが)。そして、吊した後にはしばしば吊し具合が変わるだろう。あるいは風や振動で揺れたりもする。何が言いたいかというと、吊すという振る舞いにはある種のゆるさがあって、吊されたものには吊すという当の営みから時間をおいてそこに放置されているという感覚が残る。
 あるいは、家の外に無造作に置かれた感じのするバケツの絵。それもいかにも誰かがそこに置きっぱなしにしていったという痕跡を感じさせる。あるいは、ワイエスが好んで描いたというオルソン・ハウス。この古びた家には朽ち果てていきそうな一方で、そこで人が暮らした痕跡が明瞭に残っている。たとえば、やはり吊されたものである雨どいやカーテン。あるいは、彼が描いた人物像。彼ら彼女らは、決して見ているわれわれと視線をあわせることはなく、どこか虚空を見ている。習作のなかには、その人物が見つめている風景も描かれているのだが、仕上がった作品ではそれを眺めている人物だけという作品もあったりする。あるいは、逆に、その状態に到る作業をしている人物像が習作では描かれているのに、最後は風景だけになっている絵があったりする(ヘルメットに入った松ぼっくりの絵とか)。
 そうした習作を見ていくとますます感じられてくるのが、絵で描かれている事態に到るまでの時間の経過だ。たとえば、道具が描かれれば、その道具をそこまで使い込んだ時間と使い手の思い入れが滲みだしてくるだろう。つまり、ワイエスの絵は、その静閑とした印象と並行して、いまこうして目の当たりにしている光景をみちびくまでの時間、あるいはそこにいたるまでの記憶を携えているように思われる。そして、彼の絵ではそうした事物により光りが充てられている。で、こっちも時間を忘れてみていた。

http://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/index.html