「ひきこもり」への社会学的アプローチ(2)


  (1)http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090201/p2の続き


 こうした自己防衛戦略の採用を仕向ける基礎的信頼の脆弱化の源をたどっていけば、当然親子関係が浮上してくる。さきほど述べたように親子関係は基礎的信頼を育む場であるが、それが以前のようにはうまく機能しなくなっている現実があるように思われる。この点は、子育てのサポートを周囲に期待できないとか、以前、親殺しの増大とかかわらせてふれたように、社会のなかでおおよそ共通した教育マニュアルが解体し、(母)親がそれだけ独自の教育方針を決められるようになり、周囲を見ながら、マニュアル探しに走るといった事態と関連してくるだろう*1。ただし、うまく機能していない家庭の子がすべてひきこもるわけではないことはいうまでもない。それは、せいぜいのところきっかけの一つにすぎないのであり、これは先述したいくつものステップすべてにあてはまることは注意しておく必要があろう。
 話を戻せば、たとえば、しばしば指摘されるような、世間体を気にしては家族でひきこもる子どもを抱え込んで社会から隠そうとしたり、逆に、無理やり社会に押し出そうとしたりして、いっそうひきこもり状態をひどくしてしまうという悪循環が確認されている。「一般にひきこもり状態が長期化してくると、家族はなんとしても本人を動かそうとして、さまざまに揺さぶりをかけはじめます。叱咤激励や正論、お説教などで本人を包囲し、圧力をかけて動かそうと試みるのです。しかしこれらの努力は、いっそう本人のひきこもり状態をこじらせてしまいます。家族と本人との間に不信感の溝が深く走り、断絶が深刻化し、ほとんど会話すらない状態が慢性化していきます。また家族も、わが子がひきこもり状態にあることを深く恥じ、抱え込んで内々に解決しようと考えがちです」(斎藤75頁)。こうした親子関係では、子どもより世間に目を向けてしまっているという点で、うまく親子関係を築けていない典型だということになるだろう(もちろん、それはこの社会ではある意味で自然な発想なのであり、当事者にそんなつもりはないということは重々あり得る)。
 川北論文(第6章)を読むとき、親子会の意義はそうした親子関係をやりなおし、改めて基礎的信頼を醸成しようとする営みであるように読める。そのためには、子どもが変わる以前に親が態度を変えなければならないだろうし、それはたとえ「ひきこもり」でも我が子を全面的に受け入れるということから始まるだろう。だが、それは子どもをもう一度成熟のステップへのせてやるということでもあろうから、川北が確認しているように、「社会から徹底した本人を受容しつつ、再度の社会参加を後押しするという、両義的な努力が求められる」(177頁)。つまり、親子会は、子どもが改めて成熟へ向けた選択肢と向き合えるようになるための中継地点でたることが期待されているのである*2
 とはいえ、子どもに問題がある場合には親にも問題があるということは、少なからずあるであろうし、親に期待できない実情は、一方での支援団体が介入する可能性の模索につながってくる。もっとも、親を始めとする重要な他者とのつながりを中ぬきするやり方は、基礎的信頼を醸成するステップを飛び越して、友人関係を築く等々の段階に踏み込んでいくことになるから、そのやり方にしばしば懸念が表明されるのもよく分かる話ではある。それでも、そうしたやり方が一定の有効性を持つのだとすれば、そこには前述した親子関係が他者化する一方で、友人関係の意味が増大しているという前述した事態と関連性があるのかもしれない*3
 中村堀口論文(第7章)で興味深かったのは、支援団体が行う(1)訪問活動、(2)居場所の提供、(3)就労支援という三つのステップのうちの訪問活動で、「サポーターを派遣するにあたっては、プライドを傷つけないよう、本人と同性で年上の者が選ばれることが多い」(197頁)という点である。ここではそれがどの程度年上かは述べられていないが、おそらくは兄貴分的な態度が採れるちょっと年上といったぐらいのケースが多いのではないだろうか?
 近年の友人関係の特徴の一つは、学校であれ塾であれ友人関係が学年ごとに区切られ、学年横断的に友人関係が組織されないことである。たとえば、私の周囲の学生は入学年次が遅れることを嫌って、なにがなんでも現役合格で大学に行きたがる傾向が強い(これは高校側の指導もあるのかもしれないが)。だが、学年横断的な友人関係は、同学年間の友人とは違ったコミュニケーション・スキルが必要とされる面倒さがある一方、自分のちょっと先を行く存在として自分の将来像をイメージするモデルや相談相手になりうる。つまり、かつてはちょっとした「長幼の序」が関係を築いたり、成熟モデルを構築するリソースとなりえたのである。
 もっとも「居場所段階では参加者のあいだに明確な序列や上下関係はなく、「モデル」とされる者も特にいないという」(202頁)。たしかに、「ひきこもり」は「通常」の成熟のステップから外れているとみなされがちだから、年齢にかかわる事柄をを関係に持ち込むことがマイナスに作用することがあるというのはよく分かる。ただ、この「参加者」という括り方は曖昧なところがある一方で、「雑多な大人、いい加減な大人を見せるということは、多くの支援団体が意識的におこなっていることであり」とか、働くにあたっても「上手な手の抜き方を覚える」といった記述がある。「大人」がこうしたふるまいを見せることは成熟するための閾が意外と低いものだということを気づかせる点でとても意義があると思われるが、それは同時にそのようにふるまう「大人」が一種のモデルとして機能しているということでもあろう。
 また、支援団体も就労支援まで踏み込む以上、親子会での親と同様、全面的に受け入れながらも社会に押し出すという両義的な役割を担わなければならない。だとすれば、ちょっとした「長幼の序」も支援団体の活動のなかで両義的な意味を持つのではないだろうか?この点はもっと踏み込んで検討してよい論点であるように思えた。


 さて、このように親子会も支援団体も「ひきこもり」を全面的に受け入れながらも、社会に押し出すという両義的な役割を果たそうとしている。だから、こうした居場所にあっては「個人としての「ひきこもり」本人に対する全面的な帰責も、全面的な免責も、ともに回避されている」(210頁)。だが、ひるがえってみれば、こうした居場所が「ひきこもり」に提供する状態は、即自的なものからより対自的なものへと、かなり形が変わってはいるがひきこもり状態で達成されていたこととよく似ているのではないだろうか?
 「ひきこもり」がなんらかの挫折的な経験から生じたのであれば、そこには自責の念がつきまとうだろうが、同時に対人関係のトラブルならば相手に責任を帰して免責意識を抱くこともできる。ひきこもること自体も、現実には外にでるという可能性が常にある以上、自分が選んだことでありながら、出られない、こもらざるをえないという両義牲がつきまとうはずである。また、ひきこもりの過程で親に当たったり、神経症的な症状が出て治療対象ともなりうるといったことも免責的な状態を示すものと受け取れる*4
 他方、自分が「ひきこもり」に当てはまることを認識し、「ひきこもり」というカテゴリーを受け入れることは、自らの置かれた状態を見つめなおし、語り始める第一歩となろうし、居場所は、自分と同じような境遇の人間と出会うことで、自分の抱えている問題が特殊な問題ではないことに気づかせてくれる場であると同時に、自分の置かれている状態が、つまりは自分自身が肯定される場所である(第4章参照)。すなわち、自分の内面にあった自責と免責の葛藤が、居場所ではそのまま承認され、共有されるようになっている。そのなかで基礎的信頼が改めて醸成され自己評価も安定する。してみれば、居場所とは 「ひきこもり空間」の拡張、ないしは「他者」が入り込んでくるという意味での社会化として捉えることができるであろう*5
 そして、こうして拡張され疑似社会化された「ひきこもり空間」の特徴はネット空間に類比的である。つまり、コミュニケーションにコミットするためのコストが低く、各自が様々な「妄想」を持ち込んでコミュニケーションに参与する可能性に開かれている。たとえば「複数の団体で見られるニックネームの使用」(203頁)はそうした一端を示すものであろうし、この本ではなぜかセクシュアリティの問題が取り上げられていないが、「参加者間での恋愛や結婚の話題は、就労と並び基本的にタブーである」(202頁)といった指摘がある*6。こうしたルールも自分が抱え込んだ妄想を支えるのに有用であろう。こうして、「ひきこもる」過程で膨らんでいった妄想が居場所のなかでとりあえず支えられ、 居場所のなかで直に「他人」と交わることで、少なくともある程度までは、こうした妄想を相対化しては解除する視点が獲得できるようになっているのではないだろうか*7


 これの続きは(3)http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090208

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

*1:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20070527

*2:齋藤環はひきこもりと親の関係を権利や義務といったきわめて形式化された言葉で語り、「具体的には、親子関係においても、一種の契約関係を導入することを提案したいのです」(164頁)と述べている。これは親と適切な距離をおいた関係を作れるようになることで、ひきこもる過程で衰弱した象徴界の機能を強化することをねらったものと思われるが、実際の親子会ではこのあたりはどうなっているのであろうか?

*3:こんなこをを書いていると、黒澤清監督の映画作品「アカルイミライ」のことを思い出す。たしかバイト先でアタマに来たオダギリジョーが職場の誰かを殺しにいくと、そこには代わりにそいつを殺したバイト先の先輩である浅野忠信がいて、浅野は収監中に自殺する。そして、今度はオダギリジョーが、オダギリジョーの身代わりになった浅野忠信の身代わりとして、浅野忠信の父(藤竜也)のもとを訪れ親子関係をやりなおすことになる。このとき、藤竜也が「君を全面的に受け入れる」と言うのだ。しかし、この「家庭」には母親がいない(だから、藤竜也は母親の身代わりということになる)。つまり、すべてを包み込む母性的なものが欠如したところで親子関係をやりなおそうとするのだ。

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*4:笠原嘉は「スチューデント・アパシー」や「退却神経症」を論じるにあたっていつもその「ぬけぬけ感」を指摘していた。自分の置かれた状態に苦しみながらも、どこかぬけぬけとしているというのは典型的にこうした両義牲を示しているように思われるのだが、「ひきこもり」についてはこうした「ぬけぬけ感」は確認できるのだろうか?

*5:その点で、成田善弘による青年期境界例の議論は興味深い。おそらく象徴界の衰弱と想像界の肥大化という点では、ひきこもりと青年期境界例には共通する点があると思われる。象徴界が十分成立していなければ、内面と外界の区別が曖昧になり「内面的な」葛藤はそのまま外界にアクティング・アウトとして現れてしまう。だから、治療ではその間に割ってはいるものが必要になってくるのであり、成田善弘は自らの治療モデルのなかで、患者との面接室をアクティング・アウトを封じ込める「外界と内界の移行領域」(179頁)として位置づけている。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20080823

*6:また、居場所でどのようなトラブルが起こるのかも言及されていないが、トラブルに定型化したパターンはあるのだろうか?

*7:齋藤環はひきこもり状態をサイバースペースのそれに類比し、それをかなりネガティブに捉えているように思われるが(下記引用)、それは一面の真理であるとしても、居場所の両義牲はサイバースペース的なものが一種の「移行対象」として機能する可能性をも示唆しているのではないだろうか?そもそもセルフヘルプ・グループやグループ精神医療自体も多かれ少なかれネットと共有する特徴をそなえているように思われる。「つまり、ひきこもり事例はインターネットに関心を示さない、もしくは拒否する、という表現のほうが臨床的には正しいのです」(132頁)。「閉塞空間には、真の意味での「対象」が存在しません。ひきこもり事例にとっての両親は、コフートのいう「自己対象」の一部にすぎず、それはあたかも自分の身体の一部であるように認識されます。そこには対象が本来持ち得るような他者性がまったく欠如しています。そして他者性の欠如という点では、サイバースペースで出会うさまざまな対象も同様です。いずれの場合も共通するのは、他者との距離感のなさです」(151頁)。