「ひきこもり」への社会学的アプローチ(1)

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

「ひきこもり」への社会学的アプローチ―メディア・当事者・支援活動

 「ひきこもり」の実態を包括的にとらえ明らかにしていこうとする、野心的で中身の濃い労作だ。で、従来の議論にたいする問題提起も含まれているし、これで社会学領域から「ひきこもり」を取り上げた本格的な書物が出たといってもいいだろう。
 その中心となる論点は、序章でもふれられているとおり、ひきこもりの〈曖昧さ〉であり、〈微妙さ〉だ。「ひきこもり」と呼ばれる人たちの実態が多様で微妙な問題を抱えるとすれば、それに対応する側も余白を残した〈微妙な〉応答が求められる、そうした意義がこの本のなかでかなり積極的に評価されていく。
 もっとも、ボクのような理論屋としては、そこで話が留まってしまうのにはちょっと不満も残る。やはり、そういう実態からどんなことが考えられるのか、より一般的な議論を展開する余地がありそうな気がするからだ。一般論が複雑な実態を見逃す方向に働く懸念からこうしたスタイルが採用されているのだろうが、社会現象を説明する枠組みを用意することは必ずしも現実を単純化することにつながるとはかぎらない。そもそも一般的なモデル化が事例をすべて包括できるわけなどないのであって、むしろ、包括的たりえないからこそ、新しい問題を発見していくようなヒューリスティックな意味を持ちうる。また、そうすることで、他の領域(たとえば、摂食障害)や他の問題、何よりも現代社会をとりまく状況とのつながりを見据えることができる。
 その手の話は、現場を見ている人間には当たり前すぎたり、余り当事者には役に立たないのかもしれないが、ボクの関心としては実はそこが一番知りたいところだったりもする。で、そんな意識を抱きながら、ボクがこの本を読んで考えたことを書きつづってみることにしよう。


 まず、先日書いたアラフォー話というのがまだボクのアタマの中には残っているせいもあって、読む前から「ひきこもり」の問題と成熟の問題の関連ということが、これまで以上にボクのなかでは気になっていた。たとえば、ひきこもりは男の方が多いと言われており(この本では正確なところはよくわからないとしながらもこの点を確認している)、そうすると、男の子の方が将来に対する期待をかけられやすいから、その分だけプレッシャーを受けやすいといったことが直ちに思い浮かぶわけだが、のみならず、アラフォー話でも書いたように、男の方が相対的に成熟が難しいという現実がある*1。これってかなり大きなディレンマになるだろう。
 おそらく親は自分の成長のモデルにならないはずだ。ただし、いまの世代の親なら彼ら彼女らほどではないにせよ成熟の困難に直面しなければならなかったはずで、彼ら彼女らは、そんな親とかかわりながら、親の人生を彼ら彼女らはどのように見つめている、あるいは見つめてきたのだろうか。親のようにはなりたくないと思っていたりする方が多いのではないか。
 そして、この点で、この本を読みながら改めて感じたのが、「基礎的信頼」の脆弱化とでもいうべき事態だ。ブランケンブルクが、「精神分裂病」に見いだした「自明性の喪失」状態を、エリクソンの「基礎的信頼」の欠如に類比したように、基礎的信頼が不安定になれば、対人関係を構築するうえで自明なものとして使えるはずのリソースがうまく使えない、だから、存在論的な安心感が得られない。そのせいで、自分は他人にどう見られているか、他人とどのようにかかわればよいか等が過剰に気になり、つまりは、コミュニケーションの困難と結びついてくるということになる*2
 また、エリクソンによれば、基礎的信頼は親との愛情関係で育まれるものとされているから、基礎的信頼の不安定性には、その代償として幼児期の万能感が相対的にそのまま残っていく事態が並行して生じるといってよいだろう。そうすると、宮台真司がよく言うような、プライドは高いのに、自己評価は低いといった事態が生じてくることになる。たとえば、齋藤環は『ひきこもり文化論』で次のような説明を与えている*3。「彼らの心の中は、しばしば焦燥感と惨めさで充満し、誇大な自我理想(ほぼ「プライド」に相当する)を持つことでようやく自分を支えています。しかしそれでも、激しい空虚感や絶望的な怒りがたびたび襲ってくる。これは理想自我(ほぼ「自信」に相当する)の機能が衰弱しているためです」(50頁)。「なぜ万能感は断念されないのか。一つにはこうした万能感が、その実空虚で実体がないものであることが自覚されているためです」(153頁)。
 こうした状態の下で、対人関係につまずけば、それがいきなりひきこもりにつながるとまではいかなくても、しばしば自尊心を傷つけ、基礎的信頼をゆるがせにするであろうことは想像に難くないし、ましてやその手の経験がくり返されるとなれば、なおさらネガティブな自己評価が蓄積されやすいであろう。こうした連続的な過程を想定できるのであれば、たとえささいな出来事であったとしても、それがひきこもるきっかけになっておかしくはない。たとえば、上山和樹は自らがひきこもるにいたる背景を「陳腐な条件の順列組み合わせ」と表現している(35頁)*4。また、齋藤環によれば「むしろ、ひきこもりが問題化する契機は、しばしば曖昧だったり、どうとでも解釈できるようなものであったりすることが多い」(83頁)のだという。
 そのうえで、程度の差はともあれ対人関係から退却し、ひきこもるとなれば、そのこと自体がいっそう自尊心を傷つけ、自己評価を引き下げる一方で、対人関係で自明視できるものがますます分からなくなり、疑い深くなっては「妄想」ばかりが膨らみ(ラカン風に言えば、象徴界の機能が衰退して想像界が肥大化し)、対人関係に踏み出すことがさらにつらくなるという悪循環の回路にはまりこむことになる。「「ひきこもる自分」への自己嫌悪から逃れるための選択肢は、まさに「いっそう深くひきこもること」でしかありません」(斎藤80頁)。こうした悪循環のなかに身を置くこと自体がきわめて苦痛であり、フラストレーションの種になる一方で、しばしばそこに介入したがる両親等身近な人間の態度はむしろ逆効果となって、ますますひきこもる、場合によってはあたりちらすといった事態を招くことになろう*5
 こうした想定を背景に据えると、ひきこもりとはどのような形態を取ろうとも、基礎的信頼の不安定性と万能感の継続というアンバランスな状態(荻野もこれに関連したことを153頁で述べている)で採用される自己防衛戦略の帰結であると考えてみたくなる。荻野は、これは典拠に依拠してのことであろうが、ヤマアラシのジレンマを「人を傷つけたくない」やさしさという方向で論じているが、なぜ人を傷つけたくないという側面だけに注目するのだろうか?人を傷つけたくないのは他人を傷つける自分を見るのが嫌だからであり、裏から見れば自分が傷つきたくないからではないだろうか?
 親から相対的に距離をおき、友人関係を築き、学歴をのぼっていくあいだには、さまざまなステップが想定でき、何回かの人間関係の組み替えがあり、そこには時としてつまづきの石ともなりうるいくつものちょっとした変化の階梯がある。そこでは、たとえば、音楽の趣味がちょっとマニアックで高校時代までは周囲から浮きっぱなしだったのが、大学のサークルに入ったら急に人気者になったりといった具合に新しい展開が生じることもあれば、そうした契機がまったく見出せずに、むしろ人間関係がどんどんしんどくなっていくいったことも起こりうるであろう。
 荻野論文(第5章)が強調する多様な引きこもりへの道筋は、友人関係がうまく築けない場合でも、そもそも他人と交わるのが嫌いな場合でも、学業成績がよい頃は問題がなかった場合でも、どういった戦略を採用し、それがどの段階でうまく回らなくなるかの違いであって、いずれも基礎的信頼が不安定なことから生じる自己防衛メカニズムのヴァリエーションとしてみなすことができるのではないか*6
 また、荻野も問題にするように、この手の話に関連して対人関係の希薄化という議論が出てくるわけだが、そもそもイマドキノ若者のコミュニケーション能力が総じて低いかどうかは議論の余地があると思われる*7。とりわけケータイの普及以降、少数派をのぞけば、親密なコミュニケーションにかぎればむしろコミュニケーション・スキルは上がっていると実感することの方が多い。他方で、コミュニケーションがフォーマルなものになればなるほど、苦手になりやすいということは言えそうではあるが。
 そもそもケータイ等のコミュニケーション・ツールは、コミュニケーションの継続過程はともかくとしても、その端緒の閾を極めて低いものにする。たとえば、本書でも言及されている、ネットがひきこもりから抜け出すきっかけになるという評価もこの点と結びついているといってよい。こうした状況は人にもよろうが、コミュニケーション・スキルに熟達する機会が増大することを意味する。もちろん、逆にそこで熟達できないままの人も出てくるであろうから、一方ではコミュニケーションの技量格差が開く方向にも働く*8
 また、データが手許にないが、近年、相談相手として親よりも友人の比重があがっていていく傾向があったはず。つまり、荻野も指摘するように、親密なコミュニケーションの相手として友人の意味が増大している。たとえば、「学生に昼休み一人で学食で飯が食えるか」と尋ねてみると、「食べられない」、「食べたくない」と答える方が多数派になる(とくに女性)。友達がいないと思われるのが嫌なのだという(「ぼっち」というらしい)。こうした事態は、消費社会化のなかで、世代間ギャップの増大と親子関係の希薄化、コミュニティの解体等々、友人関係以外に親密な関係を結べる機会が減少している一方で、学校的な評価の持つ意味が増大してくるということが背景にあると思われる。
 ともかく、友人関係の意味がより大きなものとなり、そのためのコミュニケーション・ツールも発達している。だが、音楽の趣味のばらつきなどに典型的に現われてくるように、必ずしも同世代だからといって共通の話題が持てるとは限らない実情がある(この点では、ファッション、グルメ等女性の方が共通のトピックを共有しやすいところがあるように思われる)。そこで、その場のノリを重視する「共振的なコミュニケーション」の需要が高まる契機が出てくるわけだが、共振的コミュニケーションは決して友人関係の希薄化を意味するわけではない。むしろ、それは友人関係を希求するうえで好都合なコミュニケーション戦略なのであり、ただ、先行する世代から見れば、それが関係の希薄化として映るだけのことにすぎないのだ(だって、親しげに話していた学生が、地下鉄で座席に着いたとたんに別々にケータイでゲームを始めたりするのをみれば、こいつらの友人関係ってどうなってるんだと思うよ)。
 というわけで、共振的コミュニケーションも一つの自己防衛戦略たりうるわけだが、ひきこもりに親和的なパーソナリティの持ち主には同調過剰なところがあるらしい。齋藤環も次のように指摘している。「彼らは自分の役割(患者もしくは取材対象といった)が明確にされている場面では、その役割を正しく理解し、それを適切に演ずることができるのです」(51頁)。この場合、彼ら彼女らが共振的コミュニケーションを自己防衛戦略としてうまく使いこなせるかどうかはケース・バイ・ケースとなろう。だから、荻野が確認しているように、共振的コミュニケーションの増大がストレートにひきこもりに結びつくわけではない。とはいえ、中学以降で友人がうまく作れないという語りが「ひきこもり」のなかで多数派を占めるという指摘からもうかがわれるように、こうした状況が人によってはかなりわずらわしく、しんどいものであったとしてもおかしくはない。齋藤環はこの点も明解に指摘している。「要するに「他人からどう思われるか」に行動の規範をおくと、それはただちに「もし自分が他人だったら自分をどう思うか」という推論につながるわけです。おわかりのように、すでにここには、推論の悪循環につながる要因がはらまれています」(86頁)。
 いずれにせよ、少なくとも、当事者の意識としては、友人関係はかつてよりも重大な意味を担うようになっており、決して希薄化していない、と言ってよい。だが、他方で、友人関係の継続が人と場合によっては難しい現実もある。このあたりに、友人関係がしんどくて引きこもりになる一方で、親子関係を抜いて支援団体等がひきこもりからの脱出を図る契機が作れる可能性が胚胎してくるように思える。


    続きは(2)http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090205
  その続きは(3)http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090208

*1:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090125/p1

*2:本書でも、支援施設や医療サポートとのかかわりで、引きこもる人の統合失調症人格障害への不安が指摘されているが(第8章)、この点を見るかぎりでは、たしかに分裂病に親和的なパーソナリティとひきこもりにはある種の近さがあるように感じられる

*3:以下、注記がないかぎり斎藤環からの引用はすべてこの本から。

ひきこもり文化論

ひきこもり文化論

*4:石川良子の下記の本からの孫引き。以降、石川に言及した引用はすべてこの本から。

*5:ちょいとラカンに言及したので、それとの関連で再度齋藤の指摘を引用しておくと「ラカン的な立場から付け加えるなら、閉塞空間は「想像的なもの」が圧倒的に優位となる領域であり、それゆえに攻撃性とエロスのアンビヴァレントな葛藤が全面的に展開することは、ほとんど必然的帰結です」(152頁)

*6:井出草平の議論はこの点で相対的に大きく一般的なステップを指摘したものであるように思われる。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20071015

*7:たとえば、本田のこの本にはこの点と関連した議論がでてくる。

*8:発生確率的にはさして変わらないはずなのに、高機能自閉症が以前より問題なってきた要因の一つは、家族関係の変化に加えて、このあたりにあるのかもしれない。