「とうちゃんはエジソン」

 久々にお昼にみたドキュメンタリー・シリーズ。工員だったとうちゃんは、というよりはじいちゃんなのだが、12年前に利き腕だった右手を失い、それでも何とかこれまでにできたようなことがやりたいといろんな自助具を編み出していく。たとえば、洗濯ばさみ。かあちゃんが働きにいくあいだ、とうちゃんは洗濯物を干すのだが、片手で洗濯物を留めるというのはかなり難しいことなのだ。それで、片手で使える洗濯ばさみ「ホセール」を考えたり、脳性小児マヒでクビしか動かせない人に会話用のキーボードを操作する道具を作ったり等々、いろんなちょっとした発明品を思いついていく。
 それを聞きつけた人がなんとかならないかと相談にくると、このとうちゃん、実費でその人にあった道具を作ってやる。でも、たとえば、ただ片手がないといっても、その状態はその人さまざま、それにあわせた器具を作らなければならない。大量生産に向いていないのだ。でも、その意味は大きい。作ってもらったある人は、これで最初に釣りに行きますと嬉しそうに語っていた。とうちゃんはいつもひょうひょうとした調子、でも「どんなものでも作れる」と豪語する。目立たないけれど、そんなとうちゃんに寄り添いそっと支えているかあちゃんの姿もいい。ここでは何かとてつもないスゴイことが起きているような気がする。
 そんな世界にたった一つしかない自助具を作り続けるこのとうちゃんのそのとうちゃんは、村の鍛冶屋だったそうな。そうすると、村人の体つきや都合にあわせて農具等をこさえてやるのは当たり前、昔ならそんな世界がふつうにあったのだ。そして、とうちゃんはそんな昔の社会の面影を引き継いでいる。このドキュメンタリー5年前に作られたのだが、その地を訪れた永六輔が最後に取り出した言葉が「義」と「志」。「義」は義理の義でもあるけれど、義足義手の義でもある。「義を見てせざるは、勇なきなり」って。こういう話ってボクはすごく好きなんだけど、やっぱり古い人間なのだろうか。