森本浩一『デイヴィドソン』

 デイヴィドソンのおさらい、それとも再挑戦、のためのとっかかりとして再読。言語能力を共有した主体から始めずにどうやってコミュニケーションの成り立ちを説明するかって問いから話を進めていくのはとても見通しがよくて読みやすい。

この場合のコミュニケーションとは、同じ「言語」をあらかじめ共有した主体が、その共有に基づいて表現を解読することではなく、聞き手がそのつど話し手の発話を解釈し、話し手が持つ「意味の理論」を「見越す」ことによって、話し手が伝えようとしていることを発見的に理解する過程です。解釈とは発話されたそれぞれの文について、そのT-文を見いだすことであり、それは特定の状況下で話し手がある文を「真と見なしている」ことの観察と寛容の原理に導かれて行われます(60頁)。

 そして、改めて読みながら思ったことには、デイヴィドソンの構想ってラディカルで面白いんだけど、個人的には真理条件でいかないと駄目なのかしらんという疑問が残る。デイヴィドソンの議論は、意味・解釈の話と行為・出来事の話に大きく分かれ、この本では主として前者が扱われているわけだが、たとえば、この本だと行為論の方を念頭において

ほかでもない当の語や文が選択された理由を発見してゆくことが、当座理論だとも言えます(102頁)。

という記述が出てきたりする。そうすると、この手の話をするのに真理条件の話は必要不可欠なんだろうかとか、二つの構想はどんな関係にあるのかしらんとか思ったりする。というか、それを考えたいがために舞い戻ってみようと思っているわけですが*1

デイヴィドソン  ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

*1:

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

この本では二つの構想は両立しないと指摘されているらしい。早くこの本までたどりつかねば。