男にアラフォーはない(?)

 友人(女性)と飲んでいたときの話題に手を加えて再録。最近は、比較的年の近い女性(複数)と飲む機会が結構多いのだが、女性と飲む方が知らないことがいろいろ分かって楽しい。
 先週の『週刊現代』の連載で高橋源一郎が書くところによれば、女にアラフォーはあっても、男にはアラフォーはないのだという。これはボクにはよく分かる話で、自分自身をふりかえってみても、いまだに自分が成熟したと実感するのは難しい。子どもの頃は大人になれば何かそれに見合った意識なり何なりを持つようになるのだろうと漠然と感じていた。だが、ここまで生きてきて、その間にはいくつかの重大な選択もしてきたと思うのだが、あまり自分に意識上の変化がおとずれたという感じがしない。中学高校あたりからこの方、ずっと連続した意識のまま来てるような気がする*1
 それどころか、仕事に就いて感じずにいられなかったのは、まともな面して働いている「大人」たちが想像以上にガキだったということ。それから、親、とりわけ父親が思いのほか幼いことにも気づくようになった。なんだ大人になってもちっとも変わらないんじゃん。というわけで、ボクは一生このままこんな感じで生きていくんだろうと思っていたから、源ちゃんが、最後に、でも大丈夫、自分の年になっても男にはそんなものは訪れないから、というのもまったくその通りだと思うわけで、その話にいたく納得したという話をしたら、最初は「だから、男は分かっていない」みたいな話になった。
 それは結局のところ、こういう話になるみたいだ。女性の方が年齢で激しく扱いが変わってくる、つまり、若い頃はちやほやされてもだんだんそうはいかなくなる。そして、結婚するかどうか、仕事をやめるかどうか、出産するかどうか、といった選択の機会が訪れる。回りをみれば自分とは違った選択をして、幸せそうに暮らしている友だちがいたりする。アラフォーというのはそういう選択のやり直しがきくかもしれない最後のステージだ。でも、一方で若い頃に夢みていたことがだんだんとフィクションでしかなかったことも見えてきてしまう。そういう痛さがあると。なるほど。それはたしかにそうで、とりわけ80年代以降の消費社会化の進展は、こうした女性の「夢」を肥大化させる方向に働いている。
 そうすると、たとえば、ファッションなんかでも、男性を意識して服を選ぶよりはモデルになる女性を見つけたり、身近な友人のファッション・センスが気になったりと女性間の競争的な側面が強くなっているといった具合に、女性のホモ・ソーシャルな関係の肥大化ということが観察できるわけだが、それでも、そうした競争をあおる幻想の供給先としては、たとえフィクションであれ、異性の存在があるんだねということになる。
 じゃあ、男の場合、異性を経由することで、そうした幻想を肥大化させることはどこまで可能だろうか?男の方がいろんな妄想を抱いていそうな気もするが、これがライフステージに結びついてくるかどうかとなると、極めて難しいことは一目瞭然だ。かつてなら、立派に仕事がこなせるようになるってことが一つの閾になったのかもしれないが、それだって、女性なら考えるはずのことを考えずにすませる装置になっていたふしがある。いずれにせよ、そうすると男の方が社会関係のなかで自分の幻想を膨らませていく資源を手にする機会に乏しいことになる。だから、引きこもりは男が多いし、萌えに走るなんてのもありなわけだ。
 これは、言い換えればこういうことになるだろう。消費社会化の進展に伴って各自のライフスタイルが多様化していくと、それこそエリクソンアイデンティティの話でモデル化したような、標準的な成熟のステップというものが通用しなくなる。このとき、女性の方が、まだしも生殖の問題と関連づけて、成熟のステップを構想しやすいのにたいして、男だとそうした手掛かりを見つけるのが難しい。家庭をもって一人前なんて発想はもう絶滅しかかってるでしょう。なんだかんだいっても女性の方が相対的に人生をリセットしやすいのだ。そのうえ、女性の場合、80年代から非正規雇用の増大と結びついて社会へ出ていくようになったわけだが、男の非正規雇用の増大は周回遅れのロスジェネ世代。つまり、ライフスタイルの多様化への適応も遅れていると言える。学生を見ていても、明らかに男の方が女性よりも元気がなく幼いと感じることが圧倒的に多い。
 というわけで、男の方が「成熟」のステップを見つける手掛かりに乏しい以上、「成熟」を求めるならば、そのやり方を自分自身で編み出していくしかない。となると、その分だけコストも大きい。下手すると、中学高校時代の行けてない自分を一生背負ったまま生きていかなきゃならないなんてことになりかねない。そして、たいていはそのままずっと来てしまうわけだ。そういう意味では、アラフォー問題って更年期障害に似ている。女性は意識しやすいけれど、男はたいてい意識しないでやりすごしてしまえる*2。とかいっていたら、最後は「男の方がかわいそうだね」って話になった。んー、やっぱりそうだったのか。
 おまけに書いておけば、そもそも成熟のステップなんてかなり恣意的なものだ。フィリップ・アリエスは中世ヨーロッパに大人と子どもの区別はなかったと指摘し、思春期の発見はルソーの頃だと言われている。そして、この成熟のステップが近代産業社会の要請ときわめて親和性の高いものであったことはいうまでもない。
 他方、アリエスの話とどうつながるのかよく分からないところもあるけれど、近代化する以前の社会にそれに類する区別がまったくなかったか言えば、そんなこともなく通過儀礼のようなものが存在した。通過儀礼を経ることで、成人する、つまりは一人前になるわけだ。だが、その通過儀礼は、われわれからみれば、あまりに幼いと思われる時期に行われていたりする。あるいは、日本の昔を考えれば、お家の事情で10歳前に元服してお殿様になる「子」もいれば、いつまでたっても部屋済みで「一人前」扱いされない次男坊、三男坊もいたりした。われわれは大人になることを精神的成熟段階と関連づけてばかり考えがちだが、精神的成熟とは別のところでなんらかの「成熟」を考える社会というものはあるわけで、また、そうした社会で求められる精神的成熟なるものがいまのわれわれの考えるそれと違ったものだとしてもおかしくはない。
 ボク自身は、「成熟する」ということが、たとえフィクションであったとしても、まだ今の段階ではそれを「演じる」ことの意味はあるんじゃないか、少なくともそれが必要とされる場面がある思っている。だって、何の責任もとれない上司とか、いつまでたっても小娘みたいなおばさんの相手をするのは嫌だよ。でも、もう少しサイクルが回っていくとどうなるんだろう?しばらく前に何かのテレビ番組で、パソコンやネットを利用して、大金を稼ぐ子どもたちがいて(なんと呼ばれていたっけ)、彼らとビジネスをしていくためにどんなことに注意しなければならないかなんて注意がなされていたけれど。

*1:だから、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』にはまるのよ。このマンガの構造は『スタンド・バイ・ミー』と比べるとよく分かる。後者が、死体探しにいって死体を見つけることで成熟するストーリーであったのにたいし、前者では、川岸で死体を見つけた主人公たちはそれを埋めてしまう、つまり、それを見なかったことにして生きる物語だ。一方で、噂を聞いて死体を探してまわるが結局何も見つけられない(=大人になれない)同級生がいる。そして、この騒ぎが起こる場所が川岸(リバーズ・エッジ)、つまり大人と子どもの境界だ。ここには成熟することの断念とそれがギリギリの成熟になっているそんな際どさがある。

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*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090210/1234250786。コメントをいただいたので少し付け加えておきますと、「やりすごせる」と書きましたが、私としても何も問題がないと考えているわけではありません。その点で、「何らかの行為的な表出(acting out)はあっても明確に意識化されないということか」というのは大変適切な補足をしていただいたと思っております。個人的にもそれで迷惑を受けていると実感していますし、秋葉の事件なんかにはどうしたってそういう側面があるだろうと考えずにはいられません。

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