to be, or not to be

ハムレット』(演出:宮城聰)

 静岡で宮城聡演出の『ハムレット』を見てきた。宮城さんは、昨年から静岡芸術劇場の舞台監督に就任していたわけだが、ボクが就任後の彼の演出作品を見るのはこれが初めて。というわけで、とても楽しみ。そして、期待にたがわぬ力作だった。そして、偶然の一致というべきか昨日ブログでネタにした話にそのまま重なる主題が展開されていたように思う。
 事前に配布された宮城さんの文章にはこう書かれていた。「いったん「世界から切り離されてしまった」人間が、はたしてもういちど、世界と和解することができるでしょうか?それを考えることが『ハムレット』を見る楽しみだろうと僕は思います」。
 これを読んで即座にボクが思ったのは、おそらくは不可能、少なくとも一人でそれをなしとげるのは難しいだろうってことだった。世界から完全に疎外されてしまった人間にできることがあるとすれば、それは、狂うこと、復讐すること、死ぬこと、この三つ以外にはないんじゃないか?そもそも、『ハムレット』ってそういう話だし、近年起こったいくつかの事件は改めてそれを確認させるようなものだったと感じずにはいられない。しかし、宮城さんの演出はその先を行こうとするものだったように思う。
 言わずもがなかも知れないが、ハムレットは、国王であった父の亡霊から、父がその弟に殺されたという疑念を吹き込まれ、その真偽を確かめるべく、狂気を演じる。だが、彼にしか見えない亡霊に吹き込まれた疑念に苦しむハムレットを見ていると、彼が狂気を演じているのかそれとも実際に狂っているのかは紙一重の差でしかないように感じられてくる。なぜなら、ハムレットが狂気を演じているつもりになれるのは、実際に王の弟が王を殺している(かもしれない)からなのだが、この現実自体はハムレットがまともだということの証にはならないからである。だって、たまたまハムレットの妄想と現実とが一致しているだけのことかもしれないではないか?彼自身狂気の境界線上を彷徨っているのだ。
 そして、彼が狂気の境界線上を彷徨い始めるのは、まさに疑念を吹き込まれたから、そして、この疑念はオセロのそれがそうであったように、一端吹き込まれたが最後、外の世界がどうであろうと、もうそこから抜け出すことができない。昨日の内海本の話を引き合いにすれば、ハムレットはもう無垢でいることはできなくなってしまう。慣れ親しんできた世界への信頼はすでにうち砕かれてしまっている。世界のたがが外れてしまったのだ。
 ハムレットの有名なセリフ、to be, or not to be。ここでは、「そのままでいるか、それとも---」という小田島訳が採用されていたが、これが一番忠実な訳なんだろうと思った。そして、言うまでもなくその答えは決まっている。一度疑念を抱いてしまったハムレットには、もうそのまま(to be)でいることができない*1
 to beでいられないハムレットは、それ故、狂気を「演じよう」とするわけだが、それは彼が愛し、またその愛を受け入れたオフィーリアの世界のたがをはずしてしまう。ハムレットの狂気を前にしたオフィーリアが行き着く先は、やはり狂気であり、死だ。オフィーリアの死を目の当たりにしたハムレットは号泣する。だが、もしハムレットがto beでいようとすれば、そのこと自体がやはりハムレットをさらなる狂気へと押しやっていくだろう。かといって、ハムレットがto beでいられないとすれば、オフィーリアもto beでいられなくなり狂うしかない。だから、この二人は互いに愛しあいながらも決して幸せに結ばれることがない。
 そして、オフィーリアとその父の死は、オフィーリアの兄レアティーズの世界のたがをも外してしまう。世界のたががはずれたレアティーズは王の計略にのってハムレットの暗殺を謀ることになる。そして、この連鎖の背景をたどれば、兄を殺しながらそれを認めようとせずto beでいようとした国王の奸計にたどりつくわけだが、その国王自身もto beでいるためにハムレットを殺さなければならなくなるわけだ。
 昔、『ハムレット』を読んだ時には、そんな連鎖なんて思いつきもしなかったけれど、宮城さんの演出では濃密にそれを感じるとることができた。あ、こんなにスゴイ話だったんだ。あるいは、少なくとも宮城さんはそう解釈したわけだ*2。役者の演技もそれに十分応えるものだったように思う。たとえば、オフィーリア役の女優さんの感情を込めない乾いたセリフはオフィーリアの狂気をより真に迫ったものにしていた。
 誰かの世界のたがが外れてto beでいられなくなるとき、それが別の誰かの世界のたがをはずしてしまい、それがまた誰かの世界のたがを外してしまう。ひとつの狂気あるいは復讐の念が、次の狂気あるいは復讐の念を呼び、それがそれぞれの死をまねき寄せる。そして、われわれはこの連鎖を悲劇と呼びたくなる。
 だが、それは本当に悲劇なんだろうか?たしかに「狂気」と死の連鎖は登場人物たちの「悲劇性」を示しているように見える。だが、その結末は敵国であるイギリスに王位継承権を譲り渡すことでしかなかった。してみれば、彼らの「内面」の「悲劇」なるものは、外から見ればむしろ喜劇というべきではないか*3?最後は、急にモダンな調子で、イギリスの皇位継承者が「車に乗ってやってくる」(ただし、セリフと音が聞こえてくるだけ)。この棚ぼたはまさにこの「悲劇」の喜劇性を暗示しているように思えた。前に、ギリシア悲劇の話を引き合いにして、悲劇が悲劇たりえなくなった世界の登場みたいな話を書いたけれど*4、それでいけば『ハムレットは』は悲劇が悲劇足り得なくなった世界に成立する「悲劇」ではないのか?世界から切り離された「悲劇」。だからこそ、そこに「世界から切り離された人間にとって、世界との和解が可能か?」という問いが成立してくる。

ハムレット (白水Uブックス (23))

ハムレット (白水Uブックス (23))

*1:まったく余計な話だが、ボクはこのセリフを耳にするとどうしてもチャップリンの『ニューヨークの王様』を思い出してしまう。宮城さんは、最後に車の音が聞こえてくるラスト・シーンを、敗戦時に日本にやってきた占領軍に重ねているみたいなのだが、ボクには、マッカーシー旋風でアメリカにいられなくなったチャップリンが、アメリカに亡命してくる王様を主人公にした映画をロンドンで撮って、このセリフを口にするってのはどういうことなんだろうって思いが浮かんでしまったりして。

*2:近年起きたいくつかの事件も、それを引き起こした実行犯の世界が壊れていたのみならず、それによって被害者や遺族の世界も壊れたに違いない。

*3:事件を引き起こした当事者にとって、それまでの経緯がどれほど苦しいものであったとしても、実際に起きた事件を端から見るとそれはどこまでも愚かしいことでしかないのだ。

*4:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20080511/p1