Wの悲劇

内海健『パンセ・スキゾフレニック』

 なんとかひとやま越えたので、内海本再訪。まだ読了してないんだけど、思わぬ気づきがあったのでちょっとメモ。
 内海さんが統合失調症を論じるとき、しばしば引き合いにだす症例がある。ある学校で、下級生のトレパンがなくなるという事件があり、生徒全員が私物検査を受けた。このときとある生徒が、担任から半ば冗談めかして「オマエがやったのか」と言われたことをきっかけに発病したという話。これまでこの話を読んだときには、そんなこともあるものなのかぐらいの反応でしかなかったのだが、この本のなかにはこの症例を中心に扱った論文が載せられている。それを読んでいたら、いまごろになって、ことの重要性に気づいたように思えた。内海さんの説明に余計な言葉を足しながらそのことを記してみたい。
 われわれは誰かに語りかけ、また語りかけられる。そして、誰かに語りかける営みは常に語りかける相手への信頼を前提にしている。というのも、たとえば、質問にされた相手は答えるか答えないかの二者択一しかない。他の反応(ワーストコンタクト)を返したら、言動を理解していないことになってしまう。送り手は当然まともな応答を期待して語りかける。時として、人はそれを利用して誰かを欺いたりもするわけだけれど、ともかく呼びかけは原理的に二者択一的に構成されている一方で、そこには相手への信頼が組み込まれている。
 他方で、「言いがかり」をつけるということがある。つまり、身に覚えがないことを「オマエがやったんだろう」みたいに言われてしまうときがそれだ。このとき、「言いがかり」をつけられた方は、いくら身に覚えがなかったとしても、「やっている」か「やっていない」かのいずれかで応答することが求められてしまう。だが、「あらぬ嫌疑を受けた経験のある者ならわかるのだが、端的に無実であることと、無実でありながら無実を主張することは、同じことではない。「私ではない」といったとたん、局面は根本的に変貌してしまうのである」(35頁)。言いがかり以前の「やっていない」とは、そもそも「やった」とか「やってない」とかそんなことを問題にしようがないところで「やっていない」。だが、言いがかり以後の「やっていない」は自らの弁解が求められるような、有徴化された「やっていない」だ。内海さんが強調するように、言いがかり以後に「やってない」と応答しなければならない「主体」はもう以前のような純粋無垢な状態ではなくなってしまっている。
 われわれはいつの間にかそれを身につけてしまっているから気にならなくなっているけれど、こうした二者択一を迫ることには原理的に隠された暴力性がある。そして、信頼とは、こうした二者択一によって危害を加えたり加えられたりすることがないだろうという想定できるところに成り立つものであり、いわば二者択一の原初的な暴力性を覆い隠すところに成り立っている*1
 さて、ところで、もし、近親者であれ、友人であれ、一緒に仕事に取り組んできた同僚であれ、頼りにしている医者であれ、そうした身近な人たちから、こうした言葉が口をついてでたならばどんなことが起こるだろうか?ボクは、内海さんがあげる症例の患者が、その教師とのあいだにどんな関係を築いていたのか気になってくる。たとえ、冗談であっても状況次第では気分のいいものじゃないことは容易に想像がつく。なぜなら、本来なら信頼を伴って示されてくるはずの二者択一が、当の信頼を掘り崩すかたちで、しかも、自分をよく知っているはずの人から提示されてくるのだから。自分はなんでこんなことを言われなくちゃならない。自分の外からやってきた言動が、自分の内側に住みついて自分を苦しめる。たしか、内海さんは『オセロ』の例も使っていた。
 こうした言動が決定的に主体をつらぬくとき、主体が築きあげていた(世界への)信頼は完全にうち砕かれてしまうにちがいない。ブランケンブルクは「分裂病」患者が「自明性を喪失した」状態を、エリクソンのベイシック・トラストの喪失になぞらえていたが、こう考えると、このことの意味がよく分かる。そして、信頼を喪失した状態では、他者の言葉は、逃れがたい暴力性を剥き出しにされ、それが何をもたらすのか予想すらつかない不気味なものと化してしまうであろう。
 話は変わるが、ボクがこれを読みながらあわせて考えたのはこんなこと。コミュニケーションの問題を考えようとすると、どうしても問題が理解の問題へと向かいがちだ。たとえば、大庭さんは「危機が出現するのは、意味の理解の仕方を共有しながら、しかし「意味の理解の仕方を共有しているからといって、行為への応接までが決められているわけではない」という、選択性が、応接そのものを拒否する自由として行使されるときである」(77頁)と指摘する。ボク自身も半ばそう思っているところがあるのだが、これを読みながら感じずにはいられなかったのは、問題は「理解可能性」にあるよりも、たとえ理解可能性が伴っても生じてくるおそれがある信頼の崩壊ではないか*2?そして、事の軽重を脇におけば、これは「分裂病」だけの問題ではない。
 それから、この症例を見ると、それが少なくとも受け手にとっては、ダブル・バインド状況になっていることが見てとれる。つまり、信頼が確認されるはずの呼応関係のなかで、信頼そのものが否定されているのだ。ダブル・バインド理論は、「分裂病」の原因論としては否定されている。たとえば、これがニワトリと卵の関係になるってことはすぐわかるし、この手のコミュニケーションが「分裂病」者以外に見られるということもある。だが、「分裂病」にかぎらず、ダブル・バインド状況が時として信頼を破壊する契機となりうるということは言えるんじゃないだろうか?ちなみ、この本の最後の方で、ダブル・バインドが再論されている。まだ読んでないけど、ボクの予想はかすってるかな?

パンセ・スキゾフレニック―統合失調症の精神病理学―

パンセ・スキゾフレニック―統合失調症の精神病理学―

*1:考えようによっては、ガーフィンケルの期待破棄実験は、これをちょっといじってみたのだと言えなくもない

*2:などと書きながら、こんな本もあったことを思い出している。きっと入手不能でしょうがブックオフにいくらでもありますよ。

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

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