「どうやったらやり直せる?」あるいは「意味はありません」

 冒頭、家のなかに風が吹き込んでいる。雨が降り出し、それが家のなかに吹き込んでくる。妻が現れて窓をしめて床を拭く。家の脇を電車が走るたびに、家はがたつき、両隣は空き地。この構図がこの家族のすべてを物語るだろう。すきま風が吹き、がたつく家族をかろうじて母親がつなぎとめている。それが、会社をクビになった父親のプライドを支え、プライドの犠牲にされる子どもを守る。
 とはいえ、クビになったことをさとられまいとする父親は孤独だし、大人げない担任の仕打ちを家に帰って語るでもなく、父に隠れてピアノを習う次男も孤独、そうした秘密をしまっておこうとする母親も孤独。いずれにしても家族のことを思ってしていたはずなのに。それに耐えられず、どうしようもなくなって家族から逃げだそうとしても、行く当てもなく、家に帰ってくるしかない。もっとも、長男だけはアメリカに渡る。
 それから3人とも拾いモノをするのだが、それが先につながるのは次男だけ。40をすぎてイチからやり直すなんてことはできやしない。むしろ、父と母は拾いモノを捨てることで楽になれるみたいだ。もうすがるものなんかないと。もっとも、最後に自分たちが思わぬ拾いものをしていたことに気づかされるのだが。
 そんな3人が泥棒にあらされぐちゃぐちゃになった家に戻ってきたとき、なにかが変わる。あらされた家が閾を取り払われてしまうように、音は閾をつらぬいて響くだろう。ラストに次男の弾くドビュッシーの「月光」は何かすべてを洗い流していくように感じさせる。それは大したことではないのかもしれないけれど。『トウキョウソナタ』(監督 黒沢清
 朝日(10/1夕)によせた香川照之の文章も秀逸。黒沢清って演出にあたって、「この演技に全然意味はありません」って言うらしい。