『火宅か修羅か』(作・演出 平田オリザ 青年団)

 平田オリザの舞台の初見。だというのに間抜けな話だが、時間間際に会場に入ったボクは、今日観る舞台のタイトルを完全に失念していた。なんせチケット買ったのはずいぶん前だったし。だもんだから、この話の落ちが分からず、後になって題目『火宅か修羅か』を確認してから、ああそういうことなのかということになった*1

 この舞台は、小説家の父を持つとある家族と高校時代の同窓会という二組それぞれのメンバーの語りに、心中をうかがわせるカップルと宿の職員のエピソードが絡み合ってくる、というかたちで組織されていくのだが、舞台上では、ある意味で、何も起こらないといってよい。起こるべきことはすべて起こってしまっており、起こるかもしれないことは結局何も起こらない。

 とある家族の母親はすでに死んでおり、それ以来父は家に帰ることなくこの宿に泊まり続けながら小説を書き、最近再婚したところに末娘が、さらには上の二人の娘が訪ねてくる。他方、同窓会のメンバーの一人は宿に近い海でボートで事故にあって友人を失っており、今年はその13回忌にあたるのだが、いまだにその記憶が頭を離れることはない。他方、宿の職員の二人は互いに好き合っているのだが、だからといって何かが始まるということもなく、心中しそうな二人は結局そのまま。

 とはいえ、何も起こらない分だけ役者たちの演技力が問われてくるところがあり、それを示すかのように、出演者の何人かは芝居が始まる前から舞台上にあって、客席からおしゃべりも聞こえてくるなか、来るべき出来事にそなえている。こんな状況で素にならずに構えを維持するだけでもちょっとした力量が必要になるはずだ。しかも、既に記したように、舞台上では複数のグループが行き交い、それぞれの話が交錯する。にもかかわらず、それぞれの肝心なセリフはきちんと耳に入ってくる。こうした間合いの取り方だってなかなか見事なものじゃないだろうか?

 そんななか、事故で友人を目前で失った男は宿で起こるすべてを目撃する立場にあり、一方で宿でおこる出来事にいちいちちょっかいを出す役回りを果たす小説家の末娘は、幼いころに自動車事故で自分をかばった母を失っており、それ以来父は家を出てしまうので姉たちと違って父にまつわる思い出がない。こうした二人の非対称的な特異性(トラウマ)の重なりは、そのこと自体それぞれのグループで話題になることからうかがわれてくるし、また、そのなかでいずれも海の神だがあまり素行がよいとは言えない、ポセイドンと阿修羅のエピソードからも示される。そして、この末娘がこの男に話しかけるというかたちで、二人の抱えた傷が交差する。

 起こるのはただそれだけのことなのだが、一方で観ながら感じずには入られなかったのは、でも、そんなことって実際に起こるのかな?それぞれが抱え込んでいるのはかなり重い話で、ふつうなら傍らから耳に入ってきても、他人が割ってはいるような類のものではない。たしかに、それぞれのキャラクターの造形は、それを引き出すように設定されてはいるのだが、それ以上にわれわれが眺めているという舞台の構造そのものがそれをそれらしく思わせてしまってるんじゃないかという感じがした。

 最後に、娘たちの父がテール・スープを作ると言い出し、それを待つ間に娘たちと再婚したとき子(あとで確認すると、登喜子となっていたが、セリフを聞いている限りでは、それはどうしても「時子」、つまり、父が一人で過ごしてきた時間を暗示しているように聞こえた)とのあいだで交わされる料理、とりわけ料理するときの炎にまつわるやりとりで舞台は終わるのだが、あれは「火宅の人」っていうことなのですね。それはユーモアのようにようにも、ブラック・ユーモアのようにも響く。まあ、阿修羅なんですな。

*1:おじさんは「火宅」というと壇一雄の『火宅の人』を思い出すのです。読んだことはなくても、なんとなくストーリーのイメージはある。修羅のほうは、宮沢賢治とか向田邦子を思い出さないわけでもないけれど、そんなにストレートにつながる感じがしない