『素人の乱』

 知らないうちに以前ちょっと言及したことのある松本哉がらみの本が二冊も出ているではないか?あら、こんなイベントもやってたとはちっとも知らなかったよ*1。しかし、この本というか、デモにしても選挙にしても楽しそう。

貧乏人の逆襲!―タダで生きる方法

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素人の乱

素人の乱

 ところで、最近、交わした会話からの思いつきとして。「文化発信」とか「文化創造」とかその手の言葉をこの頃は頻繁に聞くようになったわけだが、ボクはどうもこの手の言葉使いに違和感を覚えずにはいられない(もっとも、そうした名称のもとでいろいろとなされている活動についてあれこれ言うつもりはまったくありませんよ)。「文化」って何かというのは考え出すとよく分からないところがあるが、言葉づかいとして、少なくとも「文化」ってそのまま発信したり、創造できてしまうようなものではない、と私の直観は告げている。だって、「文化」を伝えるといっても、受け手がいなけりゃ始まらないわけだし、これまでボクはいったいいつ「文化」を送信されてきたのだろう?そもそも文化って、(とりわけ今じゃ)あらかじめ受け手を想定できるようなものじゃなかろうに。むしろ、気づいてみれば、自分が誰かとなんらかのかたちで共有してしまっているようなものではないだろうか?そのような意味において、「文化」とは社会的に記憶を共有可能にする資源だという言い方は許されそうだ。だから、言葉は「文化」そのものではないとしても、「文化」のなかで大きな役割を果たす。

 もし、「文化」の「発信」とか「創造」といった言葉使いに違和感がなくなってきているのだとすれば、まず「文化」というものが半ば市場を流通する消費財と化してきているからだろう。マーケットにのるということになれば、発信とか創造といったことも問題になるよね。現に、芸大が映画やアニメにまで手を染めだしたのはそういうことでしょう?でも、思うんだけど、世界的な市場に流通する文化商品を送り出すというのはいいけど、その後どういうことになるんでしょうね。すでに、日本のアニメやマンガは世界的に大きな影響力を持っているわけで、ある意味で、そうした海外の人たちと「われわれ」は文化を共有してるってことにもなるわけですが---。国策としてやるなら、文化商品を送り出してから先のことまで考えた方がよさそうな気がするんだけど---。

 それはともかく、文化が「消費財」になりその回転も早くなれば、拡散の一方で文化の共有ってことが難しくなる。これは若者の流行言葉なんかを考えればよく分かるし、ケータイやインターネットのようなコミュニケーション・テクノロジーの発展は、流行語レベルではすまない世代間や階層間での共有の困難や断絶の可能性を産み落としかねないってことにもなる*2。そうすると、ここでも「文化」の「発信」とか「創造」といったことが問題になってくる。

 そんなとき、彼らのやっていることは、もしかすると新しい文化の創造につながることなのかもしれないと思った。彼らが文化創造をしているのかどうかはよく分からないけれど、様々な運動の経験はさまざまなノウハウと共有された記憶を作り出すだろう。たしか、ジョゼ・ボヴェがどこかで、運動を通じて社会的に排除された人々に集団的な記憶を与えてやることで、それが来るべき闘いの原動力になる可能性があるみたいなことを言ってたけど、それを地でいくような感じ。

 また、彼らは自分たちの運動のアクセスビリティを高めていくことの重要性を指摘してもいる。つまり、運動が「公共的な空間」を作り出すことを意識している。われわれが意識しないうちにも、なんらかの活動するなかで文化が創造され、発信されていくのだとすれば、まずはみんなでいろんなことができてしまう場所が必要になってくるわけで、こりゃ面白いなと思った。そして、思うんだけど、文化云々とかいうなら、まず子ども以上に大人が遊んでみせなければ、あるいは楽しく生きてみせなければならないよね。

*1:http://keita.trio4.nobody.jp/eiga/index.html

*2:で、知り合いのフランス人は漢字が使われなくなるだろうっていうんだけど、ボクは、むしろ漢字を多用できる層とできない層が極端に分化していく可能性の方が現実味がありそうに思える。高等教育に英語を導入するようなタイプの非西欧国と違って、自前の言語で近代化を進めてきた日本にとって、これは結構大きな問題になりうる。