勅使河原三郎 Here to Here

 最後のあがきにテッシーの「Here to Here」を見てきた。再演だけどボクは初見。「Here to Here」、このタイトルを見て、ボクが初めて行ったテッシーの舞台である「アブソリュート・ゼロ」のことを思い出した。「Here to Here」ってどう訳せばいいのか困るが、ふつうに考えれば、「ここ」と「そこ」とは対になって空間的な広がりを指し示している。だが、「Here to Here」、どこまでいっても「ここ」となれば、そこには空間的な広がりはもちろん、時間的な広がりすらなく、一種の何も生じない状態、すなわちゼロが浮上してくることになるだろう。つまり、この二つは一連の似たような主題の展開のなかにあるんじゃなかろうか?などということを考えていたらパフォーマンスが始まった。
 薄暗い舞台が明るくなると、舞台は全面が白でテッシーは黒い服を着ており、以降一部をのぞいてテッシーの影が映らないように照明も調整されていた。つまり、白が光を示すとすれば、黒いテッシーはいわば影なわけである。そのテッシーはといえば、「肩で風を切って歩いていく」という表現があるけれど、最初のダンスでは動きも早く、鋭角的というか空気を切断していくような感じで、まあいつものような感じで踊っていた。
 ところで、影は光が強くなるほど小さくなっていく。踊っているうちに、あたかも影が薄くなっていくように白い布の壁のようなものが舞台と平行に降りてきて、テッシーを覆い被せてしまう。「大いなる正午」(?)。この覆いが外れたあとのテッシーの踊りは、その前とはまったく違ったものになっていた。ずっと動きが遅いのだ。きっと難度も高いのだろうが、そのパフォーマンスは素早い動きよりもずっと見る者を惹きつける。最初の早い動きが空気を切断していくような鋭さを感じさせるとすれば、このゆるい動きはまるで空気の固まりに触れるような「触覚」的なものを感じさせていた。
 しばしばいわれることだが、われわれが五感を介して事物を時空に配するにあたって、その基礎にあるのは触覚だとされる。たとえば、視覚は触覚を含んでいる。実際、われわれは事物を目にするとき、それが触覚的にどのようなもかをすでに予想してしまっており、それが予想と違えば意外に思うし、予想がつかなければその質感を知ろうと触れてみたくなる。つまり、われわれの空間はまず触覚を介して開けてくる。そんなわけだから、光が強くなり影がなくなる、つまり空間的な「ここ」へと収斂していくとき、パフォーマンスも空間的な「開け」と触覚的なものへと還元されていくのだと受け取らずにはいられない。
 その次は、このパフォーマンスのなかで唯一といってもよくテッシーの影をみせる場面なのだが、その影は一つではなく幾重にも分断されている。その後、心臓音のような規則的な音が響くなかテッシーは身を横たえる。
 再度、起きあがったテッシーの前に現れるのは、舞台のそでからテッシーの方へ歩いてくるもう一つの黒い人物だ。これはさっきの分断された影の一つなのだろうか?でも、その姿は女性のように見える。テッシーは影が近づいてきても、あたかもそれが自分とは無関係であるかのように移動して回り踊ったり寝そべったりしている。ところが、さらに舞台背後の白い布に二つ目の黒い人影が映し出された瞬間には、テッシーと黒い人物にその影がみな同じ格好をしており、二つがテッシーの影、あるいは三つが同じモノの現れであるように見えてしまう。すべてが「ここ」へと収斂してしまうのであれば、自他の差異がなくなってしまうということになるけどどうなんだろう?一連の流れは、想像界というか、死あるいは生への回帰を感じさせた。
 やがて、もう一つの影が去り、布の背後にいた二つ目の影が舞台にあらわれ消えるなか、今度は上方から舞台と鋭角になるように斜めに白い布の壁がおりてきてテッシーを覆ってしまう。この布があがって再度テッシーが現れると、つづいて白い服をした女性らしき人物がテッシーの前にあらわれる。その格好は一つ目の影の人物を想起させ、ナイフをもっているようにも見える。これまで舞台上にいたのが影ばかりであったことを考えれば、白い人物は光に照らされた具象的で「リアルなもの」ありであり、テッシーはそれと出会ったしまったわけだ。「リアルなもの」(現実界)と出会うというのであれば、あれは幻覚なのかもしれない。
 実際、この白い人物が去ると、白い布の背景に人影が映ってはそれが口をぱくぱく開けては何かをしゃべっている。声は聞こえないが、時にテッシーもそれに応えようとしているように見えるが、二つが調和的に動いていくことはない。ボクには、テッシーが幻聴を聞いている(to hear)ように感じられた。そして、最後にテッシーは一人になる。最初に述べたように、周囲は白い壁、それは精神病院の隔離病棟を思わせなくもない。つまり、ここにあるのは狂気なのではないか?考えてみれば、狂気をイメージさせる色っておそらく白だよね。「白昼夢」っていうし、黒がイメージさせるのはむしろ「悪夢」だ。
 光が広がりのある空間のもとにある影を「ここ」へと収斂させていく一方で、その光が斜めに差し込むとき「ここ」はゆがんで、他者なき狂気の世界へ導かれる。そんな舞台を見たつもりになったのだがどうなのでしょう?