小此木啓吾『シゾイド人間』

 高校生当時、流行ものということでモラトリアム人間ぐらいは読んだものだが、その先が続かず、今頃になって『自己愛人間』を読み、さらにこの本もと思ったものの絶版。たまさか古本屋で見つけて読了。思うに、やはり小此木さんって凄かったんだというか、先見の明があったと感じずにはいられない(原著1980年)。いわゆるDSMをみるかぎりシゾイドパーソナリティ障害とはちょっと違うようですが、いくつかのパーソナリティ障害とは重なる部分があるように思われるし、それ以上に適用範囲が広い。パーソナリティ障害まではいかない社会の流れということなんでしょうな*1

1,人との深いかかわりを避ける
2,同調的ひきこもり
3,自分を失う不安
4,全能感と貪欲さ
5,一時的、部分的にしかかかわりをもたない、表面的なよい関係でしか人とつき合わない
6,山アラシ・ジレンマ

 友人関係の「希薄さ」とかイマドキノ若者の自己めぐる議論が近年いろいろ出ているわけですが、その原型といってもよい話はすでにこの一見お手軽な本のなかで論じられている。しかも、小此木氏(故人)は、当然ながら、この「シゾイド人間」化の趨勢を近年のものとは見ておらず、戦後日本で生じていった現象として、早い話、団塊の世代から始まる話として理解している。そして、経験的にも、これは思い当たるところの多い話だ。ところで、モラトリアム人間の方は詳細はどんな話だったんだっけ、こっちもあらためて読み返してみよう。

自己愛人間 (ちくま学芸文庫)

自己愛人間 (ちくま学芸文庫)

 それから、以前見た舞台『エレクトラ』に重ねてここにあるのは悲劇の終焉だみたいな話を書いたけれど*2、この本のなかでは、阿闍世コンプレックスを紹介する関連で、メラニー・クラインやフロイトによるアイスキュロス『オレステイア』解釈が紹介されていた。『エレクトラ』は内容的には『オレステイア』のなかの一部分だけを戯曲化したものだと思ってもらえばいい。それによれば、「この悲劇のテーマは、復讐に復讐を重ねていくことが正義だという世界から、法秩序を持って、それによって裁いていく−復讐の原理ではなく、善意を裁いて法秩序を建設する−ということなのです」(142頁)。「父性の世界は、とても理性的で法的な世界です。それに対して母性の世界は、感情で動くような世界です。フロイトは、この話が感情の支配的な世界から理性的な世界へ脱却するプロセスに起こったものだと説いているのです」(143頁)。私が不勉強だっただけで、やっぱりそうなのね。でも、この本だと出典がはっきりしない。調べてみなくては。

*1:へレネ・ドイチュのいう「アズ・イフ・パーソナリティ」にほぼ相当するらしい

*2:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20080511/p1