阿佐ヶ谷スパイダース『少女とガソリン』

 いまや話題の人、長塚圭史阿佐ヶ谷スパイダースの公演『少女とガソリン』を観てきた。といっても、映像だけど。大の男がアイドルの歌をふりつけつきでそろって歌うとなればそりゃ笑えるわけで、面白いといえば面白かったのだが、以前に『犬の日』を観たときにも感じたのだけれど、他方で、「なんだかなー」という気分が残ってしまうのだった。
 もともと周辺地域から蔑んだ目で見られてきた工場地帯のとある町が再開発で生まれ変わろうとしている。そのせいで労働者相手に酒を造ってきた蔵元も店を閉めざるをえない。といって酒造の男たちは行く当てもなくまだこの町に残ってたそがれている。そんなとき新しくできる高齢者介護施設か何かの落成式に、彼らのアイドルりぽりんがやってくることが分かる。彼女をさらって落成式を台無しにしてもう一度酒造を再開しようと男たちの暴走が始まるのだが---というお話。
 後のトークで長塚氏自身もちょっとふれていたけれど、この酒造(共同体)の形成の背景には、なんで今ごろというのがよくわからなかったけど、明らかに社会主義あるいはなんらかのコミュナリズムが意識されており、しかもそれが巧妙かつ徹底的に戯画化され揶揄されているように思える。
 この酒造共同体はある種の欠損に根ざした連帯から成り立っていて、中核メンバーはつぶれた酒造の人間であり、そこに加わっていくのは、その酒におぼれるあまり家庭が破綻して死んだ赤ん坊の水子が見えてしまうという労働者、ホモ・セクシュアル、それに元酒造の人間ではありながらも何かといえば「オマエはここの出じゃない」と言われ続けている男がいて、この男は片腕を切り落とされることでやっと仲間であることを実感できるようになる。といった具合に、その紐帯をつくっているのは、何らかの欠損、差別的なトラウマ、ルサンチマンを抱えた男たちだ。
 また、メンバーの一人がホモ・セクシュアルであるということは、この「男だけの共同体」のマッチョでホモ・ソーシャルな性格を暗示するだろうし、しかも、彼らの教祖様はといえばデビューして日も浅いアイドルだと来ている。昔は親衛隊なんてものもありましたしね。これでもかという感じで、共同体をコケにしてるというか笑いのネタにしてる。
 ところが、実はこの教祖様アイドルが、酒造共同体のリーダー格である男とこの町を出ていまは件のアイドルのマネージャーをしている女とのあいだにできた娘だったということが分かった途端に話は急転回し、男は共同体よりも家族を選び、男たちの連帯は崩壊する。たとえ1秒たりとも親子として時をすごしたことはなかったとしても、やはり血は水よりも濃かったというわけである。
 「なんだかなー」というのは、過剰に揶揄されるコミュナリズムと、それに比べるときわめて簡単に説明がついてしまって、とってもべたな感じがしてくる家族像とのあまりの落差である。なにしろ共同体の「お遊戯」が強烈なので、すでに件の親子話が出てくる以前に、共同体のメンバーでもあり、マネージャーの弟でもある(だから、姉がもどることで彼の欠損は半分埋め合わされている)長塚扮する人物が、アイドルを教祖にかついで落成式つぶしをやることにためらいを感じて、「彼女にたいして悪いことをしてるんじゃないのか」みたいな腰が引けたセリフを口にするとき、それがきわめてまっとうに聞こえてしまう。そのうえで、実の父が娘をここから逃してやろうという人情話から悲劇が産み落とされる。となれば、どうしてもその流れがきわめて自然なものに映ってそこに居心地の悪さを覚えずにはいられない。
 そもそも実は親子でした式の人情話は、お芝居の落としどころとしてありがちなストーリーだし、そこまでいかなくてよいなら親子のいびつで濃いストーリーなんて今でもこの国じゃありそうな話だ(オリンピックも随分親子で頑張ってたようですし)。そういう意味では、たしかにそこにある種の「リアルさ」があるといってもいい。でも、この「リアルさ」ってそれこそ、いまなら何らかのコミュナリズムに対する幻想以上に、大きな幻想によって支えられているんじゃないだろうか?でも、そこまで批評的なまなざしが向けられているのかどうかがよく見えてこないまま、ただ家族幻想がべたな感じで描かれてしまうと、ボクなんかは思わず引いてしまうんだけどね。後のトークで、長塚氏は最近観たという父の舞台を誉めていたけど、お父様とのあいだには何の葛藤もなかったのかしら。ボクは、彼の舞台を観ているとなぜかすごく世代的なものを感じてしまう。
 舞台後のトークは、司会をつとめた「天然呆け」キャラの女子アナの一人舞台だったとだけ申し上げておきましょう。