福知山線で事故が起こって何年目?

 もう3年もたつんですね。某国営放送ETV特集で放映された遺族宅を訪問するJR西日本の社長の姿を見ながら、チッソの島田社長のことを思いだした。いろんな意味で似ているというか、いつまでたってもこういう事件は同じように繰り返される。そして、どこまでいっても事故にあった関係者はわりにあわない。
 この社長の発言あるいは言いぐさを聞きながら、これできっとはらわたが煮えくりかえる思いをする人がいるだろうなと思う一方、でも、そうはいってもこの人、社長としてはわりと誠実だし、ましな方なんだろうなとも思う(画面に現れないことはいろいろあるでしょうけど)。そもそも事故を起こしたところで、遺族宅を訪れようとする経営トップがどれほど世の中にいることだろう。実態はおそらくその程度のものなのだ。
 他方で、この手の事故や事件が繰り返されるたびに思うのは、事故や事件の余波を受けた人が被らなければならない不条理だ。この取材対象になっている遺族の方は、自分が妻を喪ったことに対するやりきれなさ(それはときに罪責感すらともなうようだ)から抜け出すための手掛かりを、JR西日本の「誠実」な対応のなかに見出そうとしているように見える。この気持ちはボクなりには分かるつもりではいる。でも、酷いことを言っているのかもしれないけど、それってどれほど報われるものなのだろう?だって、そのうち社長は代わるよ。そしたら、同じ話をもう一度最初から繰り返さなければならないなんてことにもなりかねないよ。それは、水俣のいたるところで繰り返されてきたことだよ。といって、それをやらないわけにもいかない。
 ボクが不条理だと感じざるをえないのは、典型的には死というかたちで、自分にとって身近で大切な人々と無理やり引き離されてしまうことと、大切な人を奪い去っていく原因は、原理的には独立な事象であるということだ。
 福知山線の事故なら(それが公に認められるかどうかはともかくとしても)大切な誰かに死をもたらした原因はきわめてはっきりしている。だが、誰が悪いとも言えないような状況で、あるいは誰の手によるかも分からないまま、余人に代え難い誰かを喪い、それを受け入れてそれからも生きていかなければならない人たちだっている。JRが逃げ込もうとするのはまさにこの境界線だといってもいい。
 比べることに何の意味もないことを承知のうえで書いてしまえば、こういう人たちは、自分が被った不条理の原因すら理解できないという意味において、よりいっそう不条理な仕打ちを受けているといっても過言ではない。福知山線の件はともかくとしても、ボク自身はこの二つのあいだに常に明瞭な線引きができるかとうかを疑わしく思っている。
 だから、ボクとしては、自分が被った不条理な仕打ちから引き起こされるどうしようもない思いと、自分に不条理な仕打ちを与えた源泉(誰か)は、確かに重なってはいるのだが、根本的には別の事柄だと認めないわけにはいかない。それは、たとえば、自分の大切な人を殺されてその殺人犯を死刑にすればそれで気が済むかと言えば、それについては人それぞれで何とも言えないだろうというところに尽くされているのではないかと思う。断っておくが、これは不条理の源泉を放っておけってことじゃない。不条理の源泉に尽きない問題が残されてしまうってことだ。
 もちろん、なかには不条理の源泉になんらかの復讐することでなんとか自分の気分に収拾がつけられるという人もいるかもしれない。だが、そうじゃない人だっている。また、われわれが被っている日常の不条理の数々は、復讐すれば却って自分の立場を悪くしかねないくらい、端から見れば、些細なことだったりする。ある意味では、事件が大きければ大きいほど、この二つは重ねやすい。
 でも、事件の規模にかかわらず、不条理と不条理の源泉を重ねきれないってことは、たとえば、水俣病事件の変遷、とりわけ、緒方正人の発言からよく見えてくると思う。 自分が被った不条理と、その不条理の源泉は重なっているようで、実はずれている。ボクが不条理だと思うのはまさにこの点なのだ。じゃあ、それをどうすればいいって?そんなことが分かればこんなとこでこんなことしてないよ。とりあえず、ニーチェでも読んでみましょう。

常世の舟を漕ぎて―水俣病私史

常世の舟を漕ぎて―水俣病私史

チッソは私であった

チッソは私であった