歌わせたい男たち

 知人に薦められた『歌わせたい男たち』を見てきた。残念ながら名古屋では一回だけの公演、でも、かなりの入り。公立高校での君が代斉唱というシリアスな、しかし、近年はなぜかあまりメディアでは取り上げられない、トピックを取り上げながらも随所に笑いを折り込んだ、そういう意味でも、とても楽しめるよくできた構成になっていた。 実際、ここで、そしておそらくは現実に、行われているのは滑稽きわまりない事柄なのだ。
 物語のなかでこの滑稽さを際立たせているのは、はじめは「君が代」を弾きたくなくて保健室に逃げ込んだのかしらんと思わせた戸田恵子演ずる音楽の先生(名古屋人)が、実際には、世間でもおそらくは多数派であろう「どっちでもええがな」みたいな立ち位置を占めているところにあり、しかも、彼女が間に入ることで浮かび上がってくる滑稽さが、歌う教員、歌わない教員の立場をそれぞれ共感可能な形で描き出すことに貢献している。
 そんな感じで、ボクももちろん十分楽しめだのだけれど、だんだん笑えなくなってしまった。おそらく、それはボクが主演の戸田惠子よりも近藤芳正演ずる不起立教員の方に感情移入していってしまったせいだろう。だって、君が代・日の丸という文脈を外してしまえば、自分も随分似たような経験をしてきたよと感じずにはいられないからだ。パンフの対談でも、周防正行監督が同じように『それでもボクはやってない』に問題を重ねていた。
 どういうことかと言えば、この物語のなかで、不起立をなくそうとやっきになる校長や教員は、都や教育委員会の指導が入ることを口実に、「君が代」斉唱時に起立するか不起立かという個人の選択の問題を不起立教員と自分たちとの人間関係の問題に書き換えてしまおうとする。「君の立場が危うくなるから」。そして「私の立場も危うくなる」。そう言う意味では彼らは真面目だし理解もある。でも、そうするとなぜ自分たちがこの問題に直面せざるをえなくなったのかその背景は無視したまま、たまたま自分たちが組み込まれている人間関係のなかだけで問題解決にとりくんでいこうとすることになる。そこには、意識的であれ、無意識にであれ、見ようとしていないものがある。近藤扮する教員が繰り返し指摘するのもまさにこの点だ。
 もちろん、人間というのはそれほど強いわけではない。そんな風に人間関係のなかに立てこもってしまう人たちを無碍に切り捨てることもできまい。自分の生活を守るために起立してしまう人たちがいることを、ボクは責めるつもりなんかまったくない。 『SIGHT』最新号にあった内田樹のインタビューにあったこんな一節をここに持ってきたっていい。「例えば、医療現場や教育現場でシステムの不調に耐えて、システムを支えている人たちは死ぬほど忙しくて、発言する機会も時間も与えられていない。そういう人たちの努力のおかげで日本的システムは辛うじてもっているわけだけど、医療や教育について発言する人間は、官僚も含めて、現場の必死の努力を知らないでか、知らないふりをしている」(124頁)。
 でも、やっぱりそれ嫌なんだよなー。もし、そこで「どうしても」という人がいなくなってしまったら、オシマイだよなという思いがボクにはぬぐえない。この芝居のなかで、ボクにいちばん効いたのは学校で唯一の不起立教員になってしまいそうな教員が「自分だってこんなことやりたくてやってるわけじゃない」とつぶやくところだ。きっとそうだと思う。「君が代」云々で騒ぐ代わりに、普段の教育活動にエネルギーを注げた方がどれほど有り難いことか*1。でも、もし自分が誠実に自分の職務を果たそうとするのであれば、人それぞれではあれ、守らなければならない一線というものはあるはずだ。  
 それがここでは「内心の自由」と言われている。「内心の自由」を説く者が「内心の自由」を守れないとすれば、そこで教えられている「内心の自由」とはいったい何なのだろう?起立不起立なら選ぶことができる。それについて何とでも言うこともできる。でも、ここで問われているのは自分が勤めを果たそうとするときの良心だ。それは選びようがない。それにこだわるかどうかで、選ぶことができる人がいる一方で、選ぶことのできない人もいる。
 この芝居のおしまいにある意味で結論はない。ここから先はみなさんが考える番ですよということなのだろう。それはよくわかるし、そういう終わり方でよいのだろうとも思う。でも、ボク自身はその終わらせ方にどこかつまづいてしまう。なぜなら、そこにどうしても選びようのないものが浮上してきてしまうから。ボクらにとって、選べる問題よりも、選べない問題の方がおそらくずっと大切なのだ。
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*1:ふと思ったのだが、これって未だに解決しないJRへの国労組合員の不採用問題と似てないか?