アルトマン補遺

 わたしは詩というものにまったくなじめない人間だといってもよいのだが(読まないとまでは言わないが)、なぜか詩論は気になってときどき読んだりする。で、いまさら『現代詩手帖』3月号での稲川方人と山嵜高裕の対談を読んでいる。すべてがわかるというつもりはないが面白い。とりあえず、最初に出てくるアルトマンの遺作について語った部分をメモ*1。前者が山嵜氏、後者が稲川氏の発言。

「ない」を「ある」の対義語とするよりも、「ない」は「あった」というところからしか考えるべきではないと思うんです。その上で、いまはないものをいまも語ることができるという立場が出てくる。いま現在のこの世界は、そのときその場所にそのひとがもしいなかったとしたらなかったものだけれども、いたからこそある、というのは最近よく思うことのひとつなんですが、それはある特定可能な個人についてのみ言うようなことではなく、すべての生命について言うべきです。そのときその場所に彼(ら)がいたことによって、そのつながりありきでいまこの世界があるんだとすれば、この世界の構成に従って、「いなくなったひと」は死んでいないといういいかたもできるんじゃないでしょうか。それがなければいあまのこの世界がないんだとすれば、過去にある「死者」、ここでは便宜として「死者」と言いますけど、その「死者」とこの世界との関係を現在の私の位置から捉え直すという宿題がでてくるはずです。「死者」と私との関係を現在形で新たにつくるということにもなるのかもしれない。そしてそれによって「死者」を歴史に委ねるばかりではなく、むしろ文学的に−われわれが個々に文学的に「死者」と向き合うという位相が出てくるんじゃないか(70-1頁)。

あの劇場のなかが一つの世界だと仮想すれば、共同体とその解体があって、さまざまな生死とその記憶があって、愛と絶望も入っているような一つの閉じられた背景で、そのなかで起こったこと=イストワールをひとつの死者の視線から肯定しようとするのは、いさぎよい答えの出しかただと思う(71頁)。