空気のダンス

 勅使川原三郎がワークショップで選んだ10代の若者たちと作り上げた作品。テッシー本人は出ないから今回はいいかと見おくるつもりだったのだが、さる信頼する筋から彼ら彼女たちの内側から出てくるものを感じたという高い評が聞こえてきたので、他方で、そこそこという声も聞こえてきたりもしていたが、その言葉を信じて急遽最終公演を見に行ってみようかという気になった。それに松本って行くと楽しいところだし。
 結論から言うと、ボクはこの作品を評価する側に与したい。最初は、彼ら彼女たちが深呼吸をしながら立ち上がり、踊り始める。まず、そこで驚いたのは彼ら彼女たちの体がかなり鍛え上げられており相当踊れるってことだった。昨秋、名古屋でのコンドルズの公演で子どもたちのはじけたように楽しげに踊っている解放的な姿がとても印象的だったのだが、そんなレベルじゃない。
 でも、ただうまく踊れるということなら、別段Karasのもっとうまい踊り手を選んでくればいいだけのことだ。たとえ未熟な面が残るにしても彼ら彼女たちを使わなければ表現できないものがあるからこそ、入場料までとって作品として発表しているはずだ。いったい、それは何なのだろう?
 踊りは始めは、以前からテッシーがやっていたような、身体のがっしりとした存在感が感じられるようなちょっと重い感じのダンスで、ソロがあったり、組み合わせがあったりするのだが、途中で女の子一人のパフォーマンスが入るとき、このソロでは彼女の息づかいがはっきりと聞こえるように演出されていた。そんな流れのなかで、後半に入っていくと踊り方が完全に変わってくる。もっと軽い感じがするのだ。
 ステージにはイス他がつるされていて、あれは何なんだろうと思っていたのだが、照明の加減で見えたり見えなくなったりする。つまり、舞っている彼ら彼女たちの地底にいる感じや空中にいる感じを演出的に補強する装置だったわけだ。
 そして、そんな軽さ帯びて大半のメンバーが次々と繰り出してきては、隣り合って踊っていく姿は、風がどんどん吹き込んできて渦をまいていくようだった。まさに空気のダンス。でも、それだけじゃない。
 たくさんのメンバーが一同にステージにあがって踊っていこうとするならば、それぞれが舞台上で移動しながら占めるポジションを奪い合わずに共存できるよう、息をあわせて(場合によっては、あえて外して)それぞれの踊りを同調させていかなければならないだろう。つまり、各自が違った場所で思い思いに流れていく一方で、そこには何か共有されたものが感じらていなければならないはずだ。
 そして、ボクは彼ら彼女たちの踊る姿をみながら、彼ら彼女たちのそうした息遣いを感じた。というか、彼ら彼女たちに呼吸(いき)をあわせて(いるつもりで)呼吸していた。きっとテッシーがやりたかったのはこれだと思った。
 いまじゃ、それほどでもないのかもしれないけれど、若い頃っていうのは何だか妙に息を切らせてしまう瞬間が多々あるものだ(ボクは未だにそうですが、だからといって若いと主張するつもりはありません)。それは、彼ら彼女たちの特権だ。テッシーは、彼ら彼女たちを踊らせることで、そうした息遣いを取り出して見せようとした、あるいは取り戻させてやろうとしたのではあるまいか。だからまた、この公演は、息吹を感じさせる季節、春になされなければならなかったはずだ。
 乱舞が終わると、また彼ら彼女たちの息遣いが聞こえてきて、寝そべっては立ち上がるなか、全員がそろって深呼吸をして終わる。きっと、そうだ。というわけで、ボクは「ガキども」の踊りにかなり感動してしまった。カーテン・コールもふだんよくある公演より多めだったように思う。最終日だったせいかもしれないけど、テッシーが現れたのは一度だけだったし、なるべくあの子達に光りを充ててやりたいということなのだろうとボクは受け取った。さすがテッシーという感じだった。秋にはソロもあるみたいだし、次ぎも楽しみだ。
 
 http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000026_dance.html