「不機嫌な職場」でおこる「精神疾患は脳の病気なのか?」

 サラリーマンのあいだで自分の職場のことを言い当てられたみたいだとかいうので評判になっている本。読んでみようと思っていたのをやっと読了。たしかに前半は「そうだ。そうだ。」の連続。でも、話が後半に入っていくと「なんだかな」という気もしてしまうのだった。もっとも、それはこの本の問題というよりは、この本が扱える領域を超えた問題が見えてきてしまうからじゃないかと思う。
 まず、共感的に読めた部分を簡単に紹介してみよう。いまの職場では、業績をあげることへのプレッシャーが高まる一方、「仕事は自分で抱え、自分でやり切るものだ」という価値観の下で働かなければならない。その一方で、周囲の人たちを知る機会が少ない。こんな状況では、いくら自分が忙しい思いをしていても、それを誰もわかってくれない、まともに相談できる相手もいないということになりかねない。これはまじめな人ほど深刻だ。さて、自分がこんな状況に置かれたらどう思うだろう?誰が他人のことを気にかけたり、その仕事を手伝ってやろうと考えたりするだろうか。「何か起きたら自分には関係ないと無関心を装う」。それが、本来調整役を果たすべき中間管理職にまで及んでいるのだという。当然、こうした状態は社員の心や体、ひいいては企業の業績に悪影響をもたらす。

こういった状況が続くと、お互いへの不信感が批判や対立の構造を生み出してしまう。結局、みんな自分のことしか考えていない。ならば自分もそうしよう。他の人がどうなっていても、自分は自分の目の前の仕事だけやっていればよい。何か問題が起きても傍観者になろうとする。こうなると「関係が悪化した状態、破綻した状態」になる(22頁)。

 この本では、こうした状況の発生をこんな風に説明している。「成果主義を中心とした「仕事の定義」の明確化と「専門性の深化」は、従来の日本企業の組織の持つ非効率な部分をなくし、組織の生産性を高めていった」(50頁)。だが、その一方で、それまでに日本の企業なら自然に成し遂げられてきた社員間の相互協力関係を実現する調整機能が弱体化してしまった。互いを知る機会が減れば、協力関係が生まれにくくなるだけでなく、会社への帰属意識も生まれにくくなる。しかも、会社が安定した雇用を保証できるかどうかも分からないから、仕事をするにしてもそれが自分のスキル開発につながるかどうかで評価してしまう。
 この悪循環をこの本は社会的交換理論を利用して「裏切り問題」と呼んでいる。いわゆる「囚人のディレンマ」ですな。「筆者らが現在問題にしているのは、組織内における社会的交換のレベルで、1990年代に入るまではあまり起こらなかったような裏切りの問題が生じていることである」(79頁)。裏切り問題を解決するためには、信頼を醸成し、職場に協力関係を築いていかなければならない。そのためには、各自が提供できる資源や必要とする資源が何かを職場で共有する集団的なコミュニケーションを促進する必要があると。こう書かれるとすぐにフリーライダー問題の可能性が念頭に浮かぶのだが、ここでは周到にも(?)そのなかには信頼の共有も含まれるとされている。
 このあたりはとても共感を持って読める。そこから彼らが提示する処方箋はこんな感じだ。まず、参加を促進して共通目標・価値観の共有化を図る。そのためにもインフォーマルな活動を再評価する。協力的なインセンティブを引き出すために、感謝や認知的なコミュニケーション回路を作って個人の活動に効力感を与えてやる。「そのために大事なことは」、「感謝と認知のフィードバックを行うことである。この二つのフィードバックが適切なタイミングで、適切な内容で機能していくことが、人の行動を促進し、強化するということ。これも、組織のメンバー全員で共有していくことが大事である」(198頁)。この話の眼目は、職場を再組織するための基礎は自己承認を与えてやることにあるというところに行き着くだろう。
 ボク自身、最近学生と接していて、儀礼的なコミュニケーションが人間関係を有効に回すためにいかに重要かを実感することも多いので、これ自体は分かる話だ。でも、ちょっと気持ち悪い感じもする。たしか、佐藤俊樹がちょっと前の『神奈川大学評論』で「希望格差社会」という言葉に違和感を表明していたと記憶する。その話は、「希望格差社会」といってみなが希望を持てるような社会にしようという話になれば、それは自己啓発セミナーや新興宗教と似てくるというようなことだったと思う。そして、同じ問題がここにもあてはまりそうな気がする。
 また、そうした気持ち悪さを感じてしまうのは、この処方箋がどこまで当てはまるのか疑問に思えるところもあるからだ。たとえば、自分の職域にかぎらず、仕事の愚痴でよく聞こえてくるのは「年寄り」が働かないということ、それなのに、社会保障や収入では彼らの方が優遇されている。その一方で、自分たちは生き残りのために同世代で激しい競争をしなければならない。労働時間だって30代40代はいちばん延びる傾向にある。つまり、協力云々以前に企業内部の構成が中堅以下に割の悪さばかりを感じさせている組織がある*1
 実際、この本で紹介されているのは、主としてグーグルをはじめ、新しい領域で成功していて社員の年齢層も相対的に若い成長企業だ。こうした企業では上に書いたような問題は比較的起こりにくい。だから、対応もそれほど難しくないだろう。だが、すべての職場がそんな条件を満たしているわけではないし、誰もがそんなに条件のよい職場で働けるわけでもない。それに、仕事を生活や趣味の糧を得る場と割りきって働くのもありだよね。
 そうすると、素人のボクには判断がつかないのだが、こうした処方箋ってどこまで適用可能なんだろうと思ってしまう。仮にそんなこととても無理だよというような職場があったとして、そこにこんなやり方を適用したら、ホントに気持ち悪い職場になってしまわないだろうか?感謝や認知的なコミュニケーションは確かに大切だが、そのためにはそれなりに周囲の人たちに気を遣っていかなければならない。逆に、それが大変でしんどくって、居心地が悪いなんてことにはならないだろうか?特に労働時間が長くまともな休みもとれないところとなれば。どうもそんなことが気になってくる。
 そう感じるのは、処方箋の根っ子の部分を自己承認の問題に据えているからだと思う。「しかし、このことは、逆に言うと、認知は現代において、かつてないほど大きな効力感を人々に与える力を持っていることになる」(180頁)。自己承認を与えてやることが大切な問題であることは間違いない。だが、そもそもこんな状況がおこったのは、これまで以上に競争が激しくなり、個人が業績をあげなければならない状況が生まれてきたからだ。こっちの方をそのままにしておいて企業を変えようとすれば、人の心をいじらなければならなくなる*2。だが、ボクにはそちらばかりに話が向かう事態はまともなことには思えない。もっとも、これはコンサルや経営学の問題ではなく、政治の問題なわけであるが。

不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書)

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*1:たとえば、http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20070919/p1で言及した本は、むしろ、そうした職場の実情を見つめているように感じられる。そして、興味深いことに二つの本は正反対といってもよい結論を導き出している。ボクはそれぞれの本のどっちかを評価しておしまいにするのではなく、こうして二つの異なる評価が出てきてしまうのはなぜなのかを考えてみる方がよほど重要だと思う

*2:この話と関連させて気になることをもう一つ。仕事がらみで30代40代のうつ病が増加しているとか言われたりするわけだが、他方で、うつ病はいまや基本的にクスリで解決する問題だと考えられるようになっている。だが、こういう本を読むたびに思うのは、もちろん私は素人ですが、そういう考え方って根本的に間違ってないだろうか?もちろん、薬物治療をするなってことじゃない。でも、本人をとりまく職場環境がちっとも変わっていないのに仕事に戻れば、再発の可能性は極めて高いにちがいない。それどころか、職場の問題を解決することなく仕事に戻るとなれば、(意識しているかどうかはともかく)何かあっても何もしてもらえないことが分かり切った状況で、本人は働き続けなければならなくなるわけで、復職したとはいえ事実上「見捨てられた」ようなものだと言うのは大げさだろうか?そんな疑問を抱いていたら、『朝日』の書評でこんな本が出ていることを知った。これも読んでみよう。

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