パライゾノート(マレビトの会 作・演出 松田正隆)

 正直、前に見た作品もよく分からなかったのだが、なんだかとても気になるので今回も見に行ってみることにした。で、がらにもなくアフター・トークで質問してしまった。
 女が一人、それから男が一人あらわれて、舞台が始まるのだが、そのセリフは二人の俳優が直接語るものではなく、どこからかスピーカーで流されるもの。しかも、それぞれの人物に相当するセリフなのかどうかも最初はよく分からない。そのセリフが、次第に二人の身振りに同調していくようになり、その意味では、セリフの帰属先が明瞭になっていくのだが、それでも当人がセリフを語るのではなく、外から登場人物にセリフが充てられるので、彼らのセリフが、彼らの口をついて出ているものなのか、それともどちらかの人物の内面で生じていることなのか、ひいてはまったく別の誰かの内面に生じていることなのか、もしかして、そのその誰かとは観客自身のことなのかもしれないといった具合に、一連のセリフの帰属先(話し手/聞き手)が不明瞭なままセリフを聞き続けなければならなくなる。
 さらに話が進んでいくと、登場人物自身が自らセリフを語り始めるようになるのだが、そのセリフに重ねてやはり外からスピーカーで同じセリフが充てられてくる。こうなるといくら登場人物が何を語ったところで、それを語っているのか語らされているのか、言いかえれば語っているのは登場人物その人なのか、その人物にひそむ別のなにかなのかがよくわからなくなる。
 そんな感じで、前作のときもそうだったけれど、セリフが語られる一方、そのセリフの語り手、あるいは受け手が誰かがよく分からないまま、セリフのやり取りが続けられていく。そうすると、たしかにセリフの言葉を聴き取ってはいるのだが、そのセリフの意味が脱落してくるような感覚を覚える。だって、どんなことばであれ、それが誰にどんな状況で語られるかによってその意味は異なってくるでしょう?でも、それが流動的なままでも語られていくのだ。だから、その言葉はどうしても意味を持てないまま放り出されてくるように感じずにはいられない。その感覚がとても不思議だ。
 アフター・トークで松田さんは、演劇の言語として共同体に回収されないような記憶を芝居のなかで報告したいのだといった主旨のことを語っていた。その説明を聞いてボクはともて納得がいく思いがした。共同体で共有される記憶は物語化して、何らかの意味を持つであろう。だが、一方で、フラッシュバック・メモリーのように突然閃いたり、なぜか口をついて出てしまうような不意に回帰してくる記憶というものはたしかにある。それは、本人にとってすら何を意味するか分からないであろう。
 だから、珍しくアフター・トークで発言してしまったボクは、「そこでの報告されてくる記憶って自分にとっての他者ですよね。だから、松田さんの言う「演劇の言葉」には意味がないんでしょう?」、それから「意味を持てない記憶として取り出されてくる演劇の言語って極めて詩的な言語に近づいていくように思うのだけれど、どう考えているのでしょう」みたいなことを尋ねてしまった。彼が答えてくれたのは、いずれにせよそれは共同体に回収されないようなものを狙っているというようなことだったかと思う。そうすると、やっぱり彼の芝居はよく分からないところが残ってしまうし、それでいいんだろうなとも思う。でも、とても印象的なものであったことも間違いない。
 二人の登場人物には記憶の化身とも思えるような異物がつきまとっており、それが男の場合には背中の瘤であり、女の場合には決して口を利かない赤ん坊(人形)だ。瘤の中身は途中で掻き出され、赤ん坊は最後に吊されてしまう。でも、そんな記憶から解放されるってことなんてあるのかな。あれってことはどういうことになるんだろう?とか思いつつ、アフター・トークでは思いついたことをしゃべってしまった。あれどういうことだろう?でも、考えてみれば、この芝居「パライゾノート」と題されていたのだ。