だるまさんがころんだ(燐光群 笹塚ファクトリー)

 いろいろ用事があるからついでに行けたらいいなと思っていたのだが、到底行けそうもなくなり、だから、チケットもとらず、まあ仕方がないかと思っていたら、なんだか行けそうな感じになってきたので行ってみることにした。でも、途中、病人が出たとかで電車は遅れるし、行ってみたら場所もどこだかよく分からない。そんなわけだから、会場にたどりついたときには、当日券発売の時間を大幅に遅れてしまい、駄目だったら残念と思っていたら、いちばんはじっこの席だったけどかろうじてすべりこめたみたい。ラッキー。
 何のことかというと燐光群の『だるまさんがころんだ』のことである。これまで二本ほど燐光群の作品を見たことがあるのだが、いずれも凄かった。『だるまさんがころんだ』は再演何度目とかいう傑作の呼び声が高いものらしく一度見てみたいと思っていた。しかも、東京で見るのは初めてときてる。
 と書きつつ情けないことに、ボクはこの『だるまさんがころんだ』という作品が何を主題にしたものかをまったく知らずに会場にやってきた。いつも思うんだけど、繰り返し見ることが出来るなら作品の初見は何の情報も入れないでみるのがベスト。だけど、こちらはそれほど暇もお金もあるわけじゃないので(おまけに地方に住んでるし)、一度見た作品を二度見る機会があるかどうかなんて分かったもんじゃない。実際、何も知識を仕入れないでいくと、当たればスッゲーということになるが(でも、予習しておいたらもっと凄かったかも)、外れたら「何これ?」ってことになって肝心の場面を見落としてるなんてことにもなりかねない。そうなると、とくに古典を再解釈するような作品の場合は、やはりある程度予習しておいた方がいいんじゃないかと思うのだが、面目ないことにほとんどできたためしがない。今回もそうだったんだけど、それでも当たり。
 まず、この『だるまさんがころんだ』が対人・対戦車地雷を扱った作品だということを知っただけで(よくご存じの方にはオマエ何を今更って感じなのでしょうが)、スッゲーと思った。だって、地雷が主題で「だるまさんがころんだ」と来れば、(おそらくはオチで)どういうことが起こるかはほぼ予想がつく。ちょっと想像するだけでもそのシーンはスゴイものになりそうだし。一体、どうやってそこまで話を持っていくんだろうか?始まる前からボクのテンションはかなり高まっていた。そして、作品は想像以上のものだった。
 ストーリーは、映画でいうグランドホテル方式に近いもので、いくつものストーリーが交互に進行していきそれが最後に一つになる。そんなわけで、ちょっと話が複雑なので、ストーリーにそった説明は難しいところもあるのだが、何よりもうまいと思ったのが、地雷というものが持ちうる両義性をいくつも引き出し、そこに喜怒哀楽を絡めながら、われわれの存在の根っ子の部分に焦点を充てていくところだ。そのやり方に、ボクは先日見たばかりのピナ・バウシュのそれに近いものを感じた。
 地雷が両義的であるというのは、何よりもこういうことだ。地雷はそもそも敵の侵入を防ぐために、それも格安で設置できる。つまり、地雷は必ずしも攻撃的な兵器ではない。だから、地雷は攻撃する側と守る側の区別を曖昧にする。のみならず、一旦設置してしまえば、しばしばその敷設位置は分からなくなってしまうし、そうじゃなくったって仲間から犠牲者が出る。とくに子どもとか。つまり、敵味方の間に引かれている線に沿って敷かれたはずの地雷によって、敵と味方の区別が意味を持たなくなってしまうのだ。だって、誰が地雷で死ぬのか分からないんだから。
 その結果、地雷に苦しむ人たちがいる一方で、地雷を作り続けてきた職人肌の男がいる。この男は家に帰っても多くは語らない。だが、オタワ条約に加盟することで日本は地雷を作れなくなり男も地雷を作れなくなる。そして、そうした父のことを主題に小説を書いた娘は通り魔に殺され。娘の死(当然、地雷の生産中止に重ねられている)は「地雷を踏んだようなものだ」と言われる。つまり、地雷作りが娘に地雷を踏ませてしまったわけだ*1
 その一方で、地雷を欲しがっているヤツもいる。命に不安を感じるヤクザの親分は邸宅を地雷で囲めれば安心だと、子分に地雷を手に入れてくるよう命じる(この人、あんまりヤクザっぽくないけど)。そして、このヤクザが恋に落ちるのが、地雷撤去に携わる娘だ。彼女には片足がない。ところが、地雷撤去に携わる人びとのなかで片足がない人なんて珍しくない。彼女は地雷撤去に携わることで「人並み」になれるというのだ。だが、次ぎに彼女に会うとき、彼女は撤去作業ですべての手足を吹っ飛ばされてしまったという。つまり、「だるま」にされてしまったのだという。ところが、インポだったというこのヤクザは「だるま」になった彼女のことなら深く愛することができた。だが、次ぎに彼女に会ったとき、彼女は記憶すら失ってしまいほとんどアンドロイドのように非人間化してしまっている。
 その一方、アフガニスタンに派遣された自衛隊の兵士が地雷原に紛れ込んでしまい助けを求めている。まさに手も足も出ない「だるま」状態。彼らは、地元の子どもに「だるまさんがころんだ」を教えてやるよう命じられて出かけたのだが、テロリストに遭遇して地雷原に放り出されてしまったのだ。どうしよう?遠くに子どもたちが見える。彼らは地雷原を抜ける道を知っているのかもしれない。彼らの注意をひくために「だるまさんがころんだ」をやってみよう。
 こうして地雷原のなかでの「だるまさんがころんだ」が始まる。この呼びかけに最初に答えて現れるのが例の「だるま」になった彼女だ。そして、この「だるま」を愛するヤクザが彼女を追いかけてきてという具合に次々に人びとが登場しては、地雷原での「だるまさんがころんだ」の仲間に加わっていく。ボクはこのシーンに涙してしまった。地雷原下では誰もが無差別に生死の境界線上に置かれてしまう。だが、そんな地雷原にあってこそ人びとは一緒になれる。とはいえ、そのきっかけを作り出すのは人間ならざる「だるま」だったのだが。ボクはこの逆説に絶望と希望を見た。それに、この「だるまさんがころんだ」がまた楽しそうなこと。とにかくそれだけだ、それ以上をどうやって語ればいいだろう。

だるまさんがころんだ―Danger!! mines!!

だるまさんがころんだ―Danger!! mines!!

*1:と、同時に、ボクは「地雷」が地雷でありながら地雷を超えた意味を持ってしまう気がしてならなかったのだが、ここではそれが明示的に示されているように思えた