『パレルモ・パレルモ』(ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踏団)

 先週末から今週末にかけて東の方でいろいろと用事があって、だったらついでにこれも行ってしまおうとチケットを買っておいたのだが、その間にいろいろあってあまりこちらにいられなくなり、これを見に行くのがメインのような格好になってしまった。でも、見に行ってよかった。
 ボクにとって、ピナ・バウシュの作品というのは鬼門みたいなところがあって、これまで何度か見てきたけれど正直のところよく分からなかった(ただし、『春の祭典』は例外。これには圧倒された)。批評をいくつか読んでみても、そこで指摘されていることのいくつかは、確かに自分でも見ていて気づくことではあるけれど、でもそれが自分に響いて来る感じはしない。きっとボクには何らかの素養が欠けているのだろう。でも、気になるのでうまく時間の都合があうときには今回みたいになるべく行ってみるようにしていた。だって、信頼する批評家たちが絶賛しているのに、自分にはちっとも理解できないなんて悔しいじゃないか。
 でも、今回は違った。いまのボクの体調では作品のすべてにわたって集中力を持続させることなんてできないから、逃してるところも大きいに違いない。きっとよく分かっちゃいないのだろう。とはいえ、ボクが深く感動したことだけは確かだ。どうやら、彼女の舞台では、これまで見てきたダンスや舞踏とはまったく違ったことが演じられている、というより、「起こっている」らしいということが分かってきたように思う。
 壁がどーんと倒れて(どう考えても、これは何かの終わりを暗示しているとしか思えない)、ピナの作品ではよくある、女性が痛々しげに男性を呼びつけては何かを言いつけ、いや違うとまた何かを言いつけてはというのを繰り返すシーンから舞台は始まる。いつもならあれなんかやってるよくらいの感じで見てしまうのだが、今日は見ていて、その痛々しさも含めてそこでは何かが剥き出しになっているように感じられた。
 この何かを言葉にするのはまだ私には難しいのだが、とりあえずそれを《情念の根》と呼んでみよう。《情念の根》が剥き出しになっているとは、その人物の感情なり気持ちなりが理解できるということではない。感情や気持ちを理解するというのであれば、ある意味、物語があれば十分だ。そうすれば、われわれは登場人物に向けて感情移入できる。
 だが、ピナの作品はタンツ・テアターとは言いつつも、そこに物語があるのかどうかよく分からない。舞台上での彼女の登場はあまりに唐突だったし、しかも同じ要求同じ仕草が繰り返される。同じ要求同じ仕草が繰り返されると、たとえ痛々しげな振る舞いであってもそれが笑いを呼んでしまうこともある。実際、その繰り返しに笑ってしまう観客もいた(ボクは笑えなかったけど)。また、この場面に限らず笑いを誘う場面がある。
 こんな感じで痛々しさが笑いとともに生じてしまうような瞬間、というより笑うしかなくなるような瞬間、そんな瞬間は確かにある。そして、自分がそんな瞬間に陥るときなぜかそんな自分を許したり受け入れたりすることができているような気がする。あれは何なのだろう?ボクが何かが露わになっていると言いたくなり、それは感情でも気持ちでもないのだが、ここでとりあえずは《情念の根》と呼ぶことにしている、自分自身では動かすことのできない何ものか、それが剥き出しになってくるのはそんな場面なのだ。
 そして、笑いをも誘いかねない叫び、そこにある男と女のバランスのとれない世界は、ボクには壁が崩れた廃墟のような世界を生きることの根本的な不調和を体現しているように思われた。舞台が進むと、そんなシーンがいくつか続くなか、この不調和な世界は不調和なままでありながらも、世界を生きる苦痛はよりやわらげられていくように見える。類似したピースの繰り返しのなかで苦痛より笑いが誘われるようになっていくというのもある。だけど、ボクに何よりもそれを感じさせたのは、ピナの舞台ではこれまたしばしば活用される記憶の語りだ。
 彼女は、ダンサーたちにテーマを与えては、それにまつわる思い出を語らせたりして、それを作品のピースにはめ込んでいるらしい。ボクが、そうした記憶の語りの場面を見ながら思い出していたのは、実家に帰ったときの母の姿だった。あるとき、母が(母の)父がよこした手紙が出てきたからと、嬉しそうにその手紙を見せにきたことがあった。でも、手紙を読み上げ始めた母の眼からあふれてきたのは涙だった。ボクにはその瞬間がとても貴重なものに思えた。
 ボクらは、なぜか知らないけれど、昔の楽しかった記憶が蘇ったとき、別に悲しいというわけではないのに。そのことに涙したり、感慨にふけったりすることがある。そんなとき、ボクらは一体どんな感情、どんな気持ちに浸されていることになるんだろう?ボクはここにも何かが、ここではそれをとりあえず《情念の根》と呼んだわけだが、露わになっているように感じられる。
 舞台上でのあの記憶の語りはそうした《情念の根》を露呈させる仕組みであるように思える。ダンサーたちはそれを日本語で語ったけれど、彼女たち彼らたちの母語でそれを受け止めることができればそれはさらに違った気分を漂わせていたのではないかと思う。そして、そんな風にして彼ら彼女たちの記憶の語りを聞いていると、なぜかとてもやさしい気持ちになれるような気がしてくるのだ。しかも、この《情念の根》が露呈されていけばいくほど、この一見すると不調和だらけの世界で(なにしろ途中では、舞台にゴミがぶちまけられていく)、各自はてんでんばらばらのことをやっていても、なんだかそれでバランスがとれているように感じられてくるのだ。
 前半の最後では、ダンサーたちが舞台の後方に向かってリンゴをどんどん投げつけてから(一種のプライマル・スクリーム?)、交代しながら二人組になって踊るのだが、その踊りはまったく噛み合っていない。でも、バラバラに踊っているというようにも見えない。この噛み合わないバランスのとれた踊りの交代劇を見ていくとき、自分がとても解放されて、自由になっていくような気がした。スゴイ、素晴らしいと思った。
 でも、ホントにすごいのはその先があるということなのだろう。後半をうまく語れる自信はないが試みてみる。前半で終わってしまえば、いくらそれが素晴らしくても、よくある話だとも言える。みんな解放されました。ちゃんちゃん。でも、われわれの日常をふりかえれば、それはセラピーを受けたようなもので、そのあとももとの生活が待ち受けている。
 後半は、記憶の語りから始まるのだが、その次の場面は壁が倒れた直後のシーンの反復だ。他にも男と女のもめごとがある。そんなわけで似たようなことが後半でも繰り返されるわけだが、だが、それは前半で起こっていたこととは、微妙にではあるが確実に異なるものになっている。ボクはそれをうまく説明できない。でも何かが違う。だからであろう。そこで起こっていることが、なんだかお互いのあいだで許されていることのように感じられてくる。でも、どのようにして?
 最後は、二列に並んだダンサーたちがそれぞれリンゴを頭にのせてそろりそろりと歩いていく(ウィリアム・テルをも思わせる)。だが、何人かの頭のうえのリンゴは落ちる。その次ぎは、なんとか一歩ずつ進んでいるとでもいわんばかりのはうような行列ダンス。あの微妙な違いはかろうじてバランスを保つことによって成し遂げられるとでも言わんばかりに。そして、まさにオオカミに食べられんとしているがちょうたちがその前にとずっとお祈りをしているというお話で舞台は終わる。
 今日を生きるボクらの日々の暮らしはしばしば苦しい。その渦中でふと我に返り、懐かしい記憶にふけるとき、きっとピナの作品からきわめて明瞭なメッセージを受け取る隙間が生まれてくる。ボクはそのように感じながらピナとダンサーたちに拍手をおくっていた。