小泉劇場とどぶ板選挙はどっちが民主的なんだろうか

 と、昨日ちらっと書いたわけですが、それはこんな次第。これスコッチポルを読みながら思いついただけで、とくに調べたわけでもないから、根拠は薄弱かもしれない。その点はお含み置きを。あの本を読みながら気になってきたのは、自民党議員の後援会組織に基づいた選挙態勢のことである。これに対する非難はいろいろあるわけで、それはそれとして認めたうえで、もしかするとこれってかつてならそれなりに合理的な機能も担っていた(あるいは担いえた)のではないかと思うようになった。
 まず、小泉劇場とどぶ板選挙の対比でいえば、小泉劇場での選挙は完全にマネジメントの発想に乗っかったものだと言っていい。つまり、有権者の受けをねらって対立軸をつくり、必ずしも選挙の中心的争点とは言えない郵政民営化を焦点化して集票をはかる。ここでは民意とは選挙過程で作り上げられるもので民意を拾い上げるという発想は希薄だ。
 他方、後援会頼みの選挙は、映画『選挙』なんかを見ても分かるように、後援会組織の面々が選挙活動に動員されるし、候補者と後援者は顔見知りで親し気に口をきくこともできる。つまり、具体的な民意を拾うということであれば、小泉劇場より後援会組織の方が有効なのだ*1。また、しばしば議員が世襲(でなければ、妻とか議員秘書)であることが非難されるわけだが、もしも、議員が地元の民意を議会で反映するだけの役割にすぎないのであれば、誰が議員になろうと構わないわけで、このとき後援者がよく知っている議員の息子や妻、秘書が後継になることはむしろ合理的ですらある。その方が民意が伝わりやすいからだ。
 もちろん、議員の役割はそれだけではないから問題もあるのだが、これは少なくとも部分的には二院制で解決される問題なのだと思う。民意を代表する形態は一通りとは限らない。衆議院が地元の利害調整を含めて国政を議論する場であるとすれば、参議院はより国政に特化して問題を議論する場として活用するというのはあり得る話。というかアメリカはそれに近いよね。日本の場合だって、そうした要素がなくはないのだが、一連の選挙改革は、衆議院参議院の選出方式の違いを不鮮明にし、代表される議員の違いをより曖昧にしてしまったように思う。
 それから、自民党議員の後援組織は農村や商工会といった旧中間層を基盤にしているから、部分的にしか地元の民意を反映できないという問題がある。明らかに後援会のようなものを組織しやすい層もあれば組織しにくい層もあるから、現実にはそうだったろうとは思うのだが、制度的には中選挙区制をとるかぎり、そうした議員は地元の民意を部分的にしか代表しない議員として選ばれてくるようにはなっていたのである。
 むしろ、小選挙区を導入することでこうした後援組織を背景にすることがそれまで以上に問題になったといっていい。だって、地元の一部の利害しか代表しない議員が地元の唯一の代表になってしまうのだから。もちろん、新中間層に典型的な無党派層が増大しているし、従来の支持基盤も弱体化してきているから*2、集票のために小泉劇場に頼ったり、創価学会に頼ったりということになる。また、自民党の場合、幹事長が公認権を握ることでより中央集権的な選挙運営がやりやすくなっているから、以前ほど地元の利害をごり押しできないし、だから小泉劇場的な手法が取りやすいということもある。
 いずれにせよこれだと後援会はますます民意を拾う装置として有効性を失いつつあると言えるのではないか?こうした状況で政策形成に有効な影響を与えようとするのであれば、たとえば、宮台真司がよく言うように、市民運動よりもロビイングが有効だってことにもなるだろう。だけど、ほんとに必要なのは、あらたに地元の民意を拾い上げるような従来の後援会組織に代わる装置を政党などが作り上げようとすることだよね。マネジメント的な発想ばかりで選挙が流れていくことは、実は、民主主義国家として日本をこれまで以上に危うい状況においてしまうことになりかねないんじゃないだろうか?

失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ

失われた民主主義―メンバーシップからマネージメントへ

*1:自民党では、野中に代表されるような土建屋どぶ板選挙的な色彩濃厚な議員が、しばしば国政レベルではリベラルだったりするわけだが、おそらくこれはこの点と関係してくるのだと思う

*2:http://www.videonews.com/on-demand/331340/001129.php