井土紀州『ラザロ』三部作

 井土紀州の『ラザロ』三部作(『蒼ざめたる馬』『複製の廃墟』『朝日のあたる家』)を見てきた。ちょっと前に『ブラック・スネーク・モーン』と『ブレイブ ワン』を見ていたことがよい伏線として働いてくれた。前者を見ていれば、なぜマユミがラザロなのか分かるし、後者を見ていたから、エリカとマユミをどうしても比べたくなる。とはいえ、残念ながら商業ベースにはのらない(1週間夜1回だけはさびしい)『ラザロ』の拙さを指摘するのはある意味容易であり、それを先の二本と比べるなんて世間的にはわけのわからないふるまいになるのかもしれないが、ボクはそうは考えない。
 『ラザロ』を見ながら『ブレイブ ワン』と比べてみたくなったのは、何よりも「悪の思想性」だ。もし人がなんらかの共同体のもとで、静かにごく普通に生きていこうとしているのに、そのように生きようとすればするほど生きられなくなっていくとしたら、そのいきつくところ人は狂うしかない。たとえば、今の世の中にあって、真面目に働いてきたのに、近くにスーパーマーケットができただけで商売が立ちゆかなくなれば等々、この手の状況を考えることは極めて容易だ。この「狂気」は自己の内側へ向かえば、こころの病や自殺につながるだろうし、それが外側へ向かえば「テロ」になる。
 狂気の行き着く先としての「テロ」、そのような意味において「テロ」はきわめて「正しい」。というより、正しすぎる。そして、「テロ」の困ったところもまた、その正しすぎるところにある。「テロ」に選ばれた対象にしばしばつきまとうのはその不条理さだ。なぜ、彼ら・彼女らが選ばれなければならない?つまり、「テロ」は自らが受けた不条理な仕打ちを「テロ」の対象に向けて「正しく」反復してしまうのだ。
 だが、この「テロ」の「正しさ」へ向けた道のりは、一過性の怒りぐらいでは乗り越えられないくらい、思いのほか困難な道なのではなかろうか?そこには、共感や愛を払いのけ、自らの決断を支えていけるような確固とした信念が必要なのではないか?たしか911テロの実行犯が欧米文化を熟知したインテリであったことが驚きをもって語られていたが、実際にはその逆だ。おそらく、「テロ」の「正しさ」を反復するためには自らの行動を支えてくれるだけの思想性が必要なのだ。
 『ブレイブ ワン』を見てもエリカにそのような思想性を感じることはできなかった。だが、マユミが語るのは、それがたとえ拙いものであったとしても、まさにそのような思想性だ。不条理の連鎖から生まれ甦ったマユミが、その不条理を反復しながら、偽札を作り国家権力に抵抗する。われわれが日常生活のなかで繰り返される不条理に向けて怒りを膨らませていけないのは、まさにそうした思想性を欠いているからではないのか?そんな風に考えてみたくなった。