『ブレイブ ワン』

 夜は草臥れて何もする気になれなかったので映画を見に行ってしまった。この映画の特徴をストーリーから捉えようとすると、それこそダーティ・ハリーみたいとかいろいろその手のものを挙げることもできるわけで、どうってことない感じがするのかもしれない。とはいえ、ディティールはかなりこってると思うけど。たとえば、なによりも事件に遭う前の穏やかな世界と事件に遭ってからの恐怖と隣り合わせの世界の対比、それがトンネルの向こうとこちらという対比のヴァリエーションとして展開するところ。彼女はそのあいだにあって、だんだんと向こう側に行ってしまうのだが、この構図が映画のなかにうまく組み込まれている。
 まず、エリカとフィアンセはトンネルの向こうへ行った飼い犬を追いかけてトンネルのなかでトンネルの向こう側から来た連中に襲われ事件に遭遇する。警察に捜査の進行状況を問い合わせにいくも待たされるあいだに、向かいにある銃砲店へ行き、そこで出会った男から非合法の銃を買う。どちらも、あちらとこちらとそのあいだ。さらに、エリカはDJに復帰して昼はラジオ番組を担当する一方で、夜の危険なニューヨークを歩き音を拾い事件に遭遇していく。最初は、夜のドラッグストアでたまたま出会った強盗犯を殺す羽目になり、その後は自覚的に犯罪者を殺すようになっていく一方で、自首しようかとも思う。
 そうした、エリカを気にかけ、トンネルのこちら側に呼び戻そうとする隣人の一人は、アフリカから逃れてきた難民らしい黒人女性、もう一人が離婚歴のある黒人刑事。黒人女性はいわばトンネルの向こう側の世界からきたサヴァイバーであり、黒人刑事の方はトンネルのこちら側と向こう側を行ったり来たりするのが仕事だ。エリカと同じく二つの世界の間にある隣人が彼女に手を差し伸べ、そして、結果的には、彼女がトンネルに向こう側に行く手助けをすることになる(でも、なぜ?向こう側のことを知っているから?)。
 自分たちを襲った犯人をつきとめ、一人を始末したところ、そこで見つけた元の飼い犬はもう一人の犯人の方へ逃げていく。事件のときにトンネルの向こうへ行ってしまった犬は、エリカよりも向こう側の住人になついているのだ。その犬を追いかけずに脇道に逸れてもう一人を捜そうとするところなんて、最初の事件を想起させてうまいと思ったし、最後は、刑事の「合法的な」助力でもう一人も始末する。すると犬がなついてきて、犬と一緒に彼女は事件に遭った公園のトンネルを抜ける。で、完全に向こうへ行ってしまうわけだ。
 この映画には「許せますか、彼女の”選択”」というコピーがついているようだが、このコピーは外しているように思えて仕方がない。実際、映画のなかでは、エリカがラジオ番組内でリスナーから犯人の行動をどう思うか電話で意見を聞く番組をやることになる。つまり、外野からのそうした声はおりこみずみなのだ。また、こうした問いが出てくれば、どうしてもエリカと911以降のアメリカの選択を重ねてみたくもなるが、それにしても彼女の行動はあまりに陰鬱。
 むしろ、こう考えてみたくなる。人の行動にあれこれと倫理的な判断を下すことはたやすい。特にいまなら何かあるとすぐにバッシングが始まるし。たしかに事件の痛手から立ち直って前向きに生きることがおそらくは望ましいことだし、事件の傷から立ち直れない彼女を弱いと裁くことも(あるいは逆に共感的に語ることも)できよう。だが、そうした倫理的な判断の手前で、いくら望ましかろうとなんであろうと、たとえ少数であれ、そのように生きられない人が事実としているものだ。いつまでも自分の受けた痛手から立ち直れないまま生きていかざるをえない人というのはいる*1
 このとき、「報復」へ流れた彼女を裁くことはできるだろうが、その倫理的な裁きはおそらく彼女自身に対しては無力だろう。いわばエリカは「善悪の彼岸」にいる。そして、このトンネルの向こうから世界を見るとき、すべてが違った相貌を帯びてくるはずだ。たとえばその手の倫理的判断は空虚なことばにしか聞こえないだろうし、そうした価値判断とは無縁なまま生きる獣どもが住む夜のニューヨークこそが自分を包んでくれるものとして親しみを帯びてあらわれてくるのではないか?
 だけど、そんなことよりもまず主役の二人、ジョディ・フォスターテレンス・ハワードの演技がすごくいいし、とても情感豊かな映像が撮れている。それこそ夜の街を歩く映像をみてるだけで、ジョディ・フォスター演じるエリカ・ベイン(このBainはvainなんでしょうね)の内側にある気分があふれだしてくる。これだけ見応えのある映画はそうそうないと思うけどな。本格的な映画をみたという気分にひたれましたよ。

*1:比較的最近みたものでは『あなたになら言える秘密のこと』あたりがそんな感じの主題を扱っている